佐倉哲さま

エッセイ拝読させていただきました。 佐倉哲さまの努力に驚きを感じております。 これからもエッセイを楽しみに拝読させていただきます。

「ある仏教徒の「死後の世界」観」のページについて少し申し上げます。

佐倉哲さまは「死」をお認めのように見ましたが、如何でしょうか。

『仏法』から見ますと、「死」は認識できません。すなわち人は死にません。 故に、死語の世界が「あの世」であろうと、「あとに残して行くこの世界」であろうと何ら意味つけは必要ありません。

「死」を自分自身から離して、ある出来事として考えてしまいますと「死」を特別な「もの」として認識してしまうことになります。 『不生不滅』です。すなはち 『不生』ですから、『不滅』すら入る余地のない事実です。

     【 劫初より造りいとなむ殿堂も、煮え湯は熱し、水は冷たし 】

 です。

森 原


『仏法』から見ますと、「死」は認識できません。すなわち人は死にません。・・・・『不生不滅』です。

「不生不滅」という大乗仏教の教えから「人は死にません」という結論を導きだされているようですが、どの「仏法」(仏典)を根拠にそのような結論を導き出しておられるのか教えていただけたらうれしく思います。

仏典というもののその莫大な数量は、一人が一生かかっても読み切れるものではありませんし、さまざまな相矛盾する思想も沢山含まれていますから、森原さんには、別の、典拠があるのかもしれませんが、少なくとも、大乗仏教の祖とも言われるナーガールジュナ(龍樹)--- そもそも彼が「不生不滅」を主張したのですが --- によれば、「不生不滅」の意味は「人は死なない」などというものではありません。

それやこれやに依存して生じたものは、実体として生起していない。実体として生起していないなら、そのものが生起したとどうして言われようか。・・・原因が尽きることによる寂静は滅尽であると見られる。実体として滅尽しないなら、そのものには「滅尽」ということがどうしていわれようか。

(ナーガールジュナ、瓜生津隆真訳『六十頌如理論』19〜20、『大乗仏典14龍樹論集』、中央公論社、44頁)

生起との依存関係(縁起)によって消滅があり、消滅との依存関係(縁起)によって生起があるのであるから、そのことからしても[ものは]空性にほかならない。 [しかし、]反論者は言う。「もし生起と消滅がなければ、何ものが消滅して涅槃するのであろうか。」・・・・これに答えて言う。実体として生起することもなく消滅することもないことが解脱ではないか。

(ナーガールジュナ、瓜生津隆真訳『空七十論』24及びその自註、同上、105頁)

つまり、ものは「実体(自性)として生起することもなく消滅することもないこと」が、彼の言う「不生不滅」の意味です。生起と消滅はそれぞれ依存関係(縁起、プラティーチャ・サムットパーダ)によって成立しているのであって、一方がなければ他方もないのであり、反論者(自性論者)が主張するように、内在する自性によって自立自存しているのではない。これはものが空(無自性)であることを示している。そのことを知ることが覚り(解脱)である。それが彼の「不生不滅」という言葉の意味でした。

チャンドラキールティ(七世紀)も次のように言っています。

この師(ナーガールジュナ)は、「依存関係による生起」(縁起)をありのままに見て、多大の喜びを得られたのである。すなわち、それを覚っている(師)は浄らかな心が最高のよりどころであると知り、ついで依存関係による生起(縁起)を見ることによって世間および出世間の善がすべて生じること、聖なる人々もすべてそれ(縁起)によって生じること、およびくもりのない知恵をそなえた尊き師ブッダたちもそれ(縁起)によってあらゆる面で真実を覚られたことを見られ、「依存関係によって生起するとは、実体として生起することではないから、実体が空であることである」というすぐれた説明をして、依存関係による生起を解釈しようとされるのである。

・・・すなわち、かの最高の聖者(ブッダ)は「ものは依存関係によって生起[・消滅]する」と説き、実体としてのものの生起と消滅とを否定しているから、(その理由から、)「かの最高の聖者(ブッダ)をたてまつる」のである。

(チャンドラキールティ、瓜生津隆真訳『六十頌如理論』序、同上、7〜11頁)

このように、大乗仏教における「不生不滅」の教えとは、「生・滅」一般を否定したものではなく、ものは縁起(依存関係)によって生滅するのであって、実体(自性)として生滅しているのではない、と主張したものでした。

よく知られているように、ナーガールジュナには、「不生不滅」だけでなく、いわゆる「八不」という八つの否定命題があります。「不生不滅」はそのうちの二つにすぎません。八不とは「不生不滅、不断不常、不一義不異義、不来不出」です。これらの八つの否定命題に関しては、中村元氏によるすぐれた分析があります。ナーガールジュナは、結局、「八不」によって何を言おうとしたのでしょうか。中村氏はつぎのようにまとめておられます。

以上「八不」を手がかりとしてかんたんに『中論』における否定の論理を検討したのであるが、このように『中論』が種々なる否定の論理によって<法有>の主張を排斥しているのは一体何を目的としていたのであろうか。かんたんにまとめていえば、その最後の目的は、もろもろの事象が互いに相互依存または相互限定において成立しているということを明らかにしようとするのである。すなわち、一つのものと他のものとは互いに相関関係をなして存在するから、もしもその相関関係を取り去るならば、何ら絶対的な、独立なものを認めることはできない、というのである。ここで<もの>という場合には、インドの諸哲学学派が想定するもろもろの形而上学的原理や実体をも意味しうるし、また仏教の説一切有部が想定する<五位七十五法>の体系のうちのもろもろのダルマを含めて意味しうる。

(中村元、『人類の知的遺産13、ナーガールジュナ』、講談社、124頁)

中村氏も、チャンドラキールティと同じように、ナーガールジュナの「不生不滅」の命題は、実体を否定する縁起思想であったと言われています。このように、「不生不滅」(やその他)の否定命題が生まれた背景には、「<法有>の主張」(実体論、自性論)があります。実体論を批判するために生まれた八不の命題は、その歴史的背景(自性論との関わり)を無視して理解することはできないと思います。(「空の思想:自性論」「空の思想:縁起論」参照)