佐倉さんのエッセイを興味深く読ませていただいております。

私が理解している範囲において、以下のことが、「空の思想」では、どのように考えているのかが、明確になっていないと思い、佐倉さんのご意見を伺いたく、おたよりしました。

空の思想、第一章・自性論、「アビダルマ論師は「無常」を否定したか」の処に書かれている、アビダルマの龍樹に対する批判

「すべては無常である」といわれており、「すべては無常である」と示すことによって、非空であることも示しているのである。(空七十論58解説)
よろしく、お願いします。



引用されているアビダルマの批判に対して、ナーガールジュナは次のように応えています。

すべては無常(と言われるが)、無常なるものも恒常なるものもなんらあるものではない。ものがあるとすると、恒常なるものか無常なるものであろうが、どこにそのようにあるであろうか。(空七十論58、瓜生津降真訳)
しかし、これだけでは、アビダルマの「無常なるものがある」という主張に対して、ナーガールジュナの立場が、「無常なるものも恒常なるものもなんらあるものではない」という、まったく相反する立場であることを表明しているだけで、なぜ、アビダルマの考えは間違いであり、ナーガールジュナの考えが正しいのか、ナーガールジュナのその理由がわかりません。

その理由は、この後につづくところを読むとわかります。空七十論(59)です。

反論者は言う。--- 経典のなかに広く説かれているから、貪り、怒り、愚かさ、はある。

これに対して答えて言う。

意にかなうこと、意にかなわないこと、倒錯を条件として、貪り、怒り、愚かさが生じるのであって、それゆえに実体として貪りや怒りや愚かさは存在しない。
(同上59、瓜生津降真訳)
ここで明らかになることは、まず、先程ナーガールジュナが「無常なるものも恒常なるものもなんらあるものではない」と言ったときの「なんらあるものではない」という存在否定の表現の意味が、実は、「実体として・・・存在しない」という意味であることです。ここで「実体」と訳されているのはもちろん「スヴァバーヴァ(自性)」のことです。つまり、「貪り」や「怒り」や「愚かさ」など、アビダルマ論者が実体視していたさまざまな「ダルマ〔法)」には「スヴァバーヴァ(自性)」がないと反論しているわけです。

なぜなら、それらの(ダルマ〔法))は、「意にかなうこと、意にかなわないこと、倒錯を条件として・・・生じる」からである、とナーガールジュナは言います。「意にかなうこと」を条件として貪りがおこるのであって、貪りの本性を内側に持った意識のようなものが実在するのではない。「意にかなわないこと」を条件として怒りがおこるのであって、怒りの本性を内側に持った意識のようなものが実在するのではない。「倒錯」を条件として「愚かさ」が起きるのであって、愚かさの本性を内側に持った意識のようなものが実在するのではない。

このように、すべては、依存して生起している(縁起)のであるから、ものには「スヴァバーヴァ(自性)」がない、そのなかにそれを存在させている実体がない、すなわち「空」である、というわけです。