初めてお便りします。私にとって空とは「すべて」です。「すべて」とは何か?それは、言葉による文節作用を受ける以前の世界の在り様なのです。ご存知の様に、言葉とは或る「もの」あるいは「こと」についてその素因毎に分解し再構築されたものです。焦点を明確にする為、当然ながら「それ」を説明するのに「不要」な要素は割愛されます。あるものが白いという時、そのものが丸いとか軽いとかいう要素は排除されます。かといって全ての事を語ろうとすれば、そもそも何を言いたいのか解らなくなってしまいます。説明すればきりがないのでやめますが、ともかく「空」とは言葉で語られる以前の世界の在り様そのもののことだと思います。言葉が稚拙で申し訳ありません。



(1)言葉と「再構築」

「言葉で語られる以前の世界の在り様そのもの」を語ることは可能なのでしょうか。それは矛盾ではないでしょうか。語られるものは、それが何であれ、「言葉で語られる以前の世界の在り様そのもの」ではあり得ないからです。

言葉の世界を「再構築」と主張するためには、本来のもの -- 「言葉で語られる以前の世界の在り様そのもの」-- と対比せねばならず、その本来のものであるところの「言葉で語られる以前の世界の在り様そのもの」と対比するためには、「言葉で語られる以前の世界の在り様そのもの」を語らねばならず、「言葉で語られる以前の世界の在り様そのもの」が語られれば、それは「言葉で語られる以前の世界の在り様そのもの」ではありません。

そうすると、言葉の世界は「再構築」である、という結論を出すために行われた比較は、じつは、「言葉で語られる以前の世界の在り様そのもの」との対比などではなく、むしろ、「言葉で語られる以前の世界の在り様そのもの」に関して「再構築」された言葉の世界との対比である、ということになるのではないでしょうか。


(2)京都学派の禅思想と仏教の「空」

森さんがここで「再構築」ということば語られていることがらは、京都学派の哲学者たち(西田幾多郎や鈴木大拙、およびその後継者達)の臨済禅思想の影響かと思います。かれらは、哲学的思索瞑想的直感(さとり)を区別して、前者(分析的・西欧的)に対する後者(直感的・東洋的)の優越性を示すために、前者は真実をありのままにとらえることの出来ない劣った方法(「再構築」、二番せんじ)だけれど、後者は真実をありのままにとらえることが出来る優れた方法だ、と主張したいわけです。

わたしは、仏教の「空」とは縁起のことであり、縁起とは「縁って起こること」、すなわち、物事の依存関係のことであり、物事の依存関係を見極めること、とくに、人間苦をもたらす要因を見極めることによって、その要因を生まないようにすることを勧めたのが、ブッダの基本的な思想(無常、無我、縁起、四聖諦・八正道)だと理解しています。

したがって、物事を分析することは、仏教の「空」にとってはなくてはならない重要なことです。分析することなしに、物事の依存関係を見極めることはできないからです。仏典に残されているブッダの言葉をみても、そこには人間とその振る舞いに関するさまざまな分析にあふれています。

だから、京都学派の哲学者たちの、分析思考をストップして、瞑想によって(西田哲学のいう)「未だ主もなく客もない」体験するのが「悟り」だなどとする思想は、仏教の「空」とはあまり関係のない、別の思想だとわたしは思っていますが、森さんはどのような根拠でもって、この思想を仏教の「空」と結びつけられておられるのでしょうか。