佐倉さんはじめまして。佐倉さんの思想にはおおむね賛成なのですが、仏教に関しては疑問点があります。

「空=縁起=無自性」という理解はおかしいような気がします。というのは「空ということは縁起である」という命題は真です。しかし「縁起ということは空である」という命題は偽です。空という言葉には縁起という意味が含まれているのですが、縁起という言葉には空という意味は含まれていないからです。

これは世界は、空であろうがなかろうが縁起でできているからです。空ということが縁起ということなら空という言葉は必要ないのではないでしょうか?。佐倉さんの言ってることは間違いではないのでしょうが、結局何も言ってないことになりませんか?

仏教というのはこの縁起が空であるということを言っていると私は理解していますます。

十二支の縁起は世界苦の成り立ちを縁起で表現しているのでしょうが、釈尊は世界苦が十二支の縁起で生じていることを悟ったのではなく、十二支の縁起が空であることを悟ったのではないでしょうか?

私はニフティ−サーブの仏教思想フォーラムで{半月}というネームで結構書き込みしていますので、よろしければ見て下さい。

半月



「ニフティ−サーブの仏教思想フォーラム」が見つかりません。(ご面倒ですが、URLを教えていただけたら幸いです。)それで、いまのところ、半月さんのお考えがよくわかりませんので、今回は半月さんのご質問にだけお応えします。

空ということが縁起ということなら空という言葉は必要ないのではないでしょうか?。佐倉さんの言ってることは間違いではないのでしょうが、結局何も言ってないことになりませんか?
わたしの空に関する拙論は、その「空の思想 --- ナーガールジュナの思想」という題名が示していますように、ナーガールジュナの空説を理解しようと試みたものです。ご指摘の、「空=縁起=無自性」という主張は、わたしの主張ではなく、ナーガールジュナの主張ですので、ご質問には、なぜナーガールジュナが空を縁起によって説明したかを簡単にのべることで、わたしの応答とさせていただきます。

まず、ナーガールジュナが空と縁起を同一視していたことはかれの主要な著作から明らかです。すなわち、かれは縁起を空と呼び、かつ、空の意味は縁起である言いました。たとえば、代表的なものを取り上げてみますと、このようなものがあります。

およそ、ものが縁起しているということを、われわれは空であると説くのである。
(中論 24:18)

また、ものが他によって存在すること[縁起]が空性の意味である、とわれわれは言うのである。
(廻諍論 22)

このようなかれの言明から、わたしは、ナーガールジュナは空を縁起によって説明した、と結論しました。なぜ、ナーガールジュナは空を縁起によって説明したのかといえば、それは、「反論者は言う。--- ではいったいただ無のみなのか」(空七十論)という言葉が示すように、空の意味がかれの論敵によって、「ただ無のみなのか」などと誤解されていたからでしょう。

そもそも、なぜ、ナーガールジュナとその反論者の間にこのような論争が起きたかと言えば、わたしの理解するところによれば、ナーガールジュナの時代(西暦150〜250年頃)よりおよそ一世紀ほど前に、「すべての法(ダンマ)は有る」と説く、当時もっとも有力だったサルヴァスティヴァーダ学派(説一切有部)に対して、ある無名の仏教徒たちが「すべての法(ダンマ)は空である」と、反逆運動を起こしたところに、その起源があります。いわゆる般若経典の出現です。そもそも「諸法皆空」という主張が必要となったのは、それとは反対の「諸法皆有」という主張が先にあったからに違いありません。

ところが、初期の般若経(ナーガールジュナ以前の般若経)は、あれも空、これも空、すべて空である、と無骨に繰り返すばかりで、そこでは空の論理的な説明が明確な形で整備されておらず、それで、「ではいったいただ無のみなのか」と、論敵に誤解されることとなったのでしょう。ナーガールジュナの功績は、その誤解を解き、空をわかりやすく説明したところにあるとわたしは考えています。「ものが他によって存在することが空性の意味である」と、ナーガールジュナが空の意味を縁起によって説明しているのは、このような歴史的背景があるからだと思われます。

一言で言えば、空の説明が時代の要請として必要とされており、ナーガールジュナはそれに答えた、ということになります。以上が、「空ということが縁起ということなら空という言葉は必要ないのではないでしょうか?」というご質問へのわたしの回答となります。

ところで、般若経の説く空を縁起の概念によって論理的に整備したのがナーガールジュナの思想的功績である、という意見は、ご存知かと思いますが、わたしの独創的な解釈ではありません。

ナーガールジュナの空の思想の中核をなすものは、「ものはすべて他のものに依存して生起し、存在するから、本体として空である」という依存性(縁起)の論理である。・・・縁起、つまり、ものはすべて多くの原因、条件に縁って生起する、という理論はジャーキャ・ムニが菩提樹の下で瞑想をして発見した真理であった。ナーガールジュナはこの依存性の真理を[般若経の]空の思想と離れることのできないものとして結びつけた。それは原始仏教にも、部派仏教にも、明らかな形では存在しなかった独創的な思想である。

(梶山雄一、『般若経:空の世界』、中公新書、186〜187ページ)

般若経全体が空観を基礎づける運動の一つの歴史を示している。そうして般若経原型成立の末期において、縁起を中心思想としたのを受け継いだのが、ナーガールジュナの仏教である。したがって『中論』においてはすでに述べたように縁起が全編の主題とされ、しかもナーガールジュナはこれを独自の天才的論理によって基礎づけている。この歴史的連絡は『中論』の注釈からみても明瞭である。故に『中論』が著されるよりも遥か以前にすでに大乗仏教は空を説いていたのであるが、空に対して「疑見を生じ」る人が現れ、「種々の過ちを生ずる」に至ったので、そこでナーガールジュナは「何の因縁の故に空であるか」を説明するために、空とは縁起の意味であり、決して反対者の誤解するような意味ではないことを『中論』によって展開したのである。すなわち空に関して疑見が行われていたから、これを縁起によって基礎づけたのである。

(中村元、『人類の知的遺産13:ナーガールジュナ』、講談社、204ページ)

半月さんのご意見をまだ読んでいないので断定はできませんが、わたしの知見のおよぶ範囲では、ナーガールジュナは般若経の説く空を縁起の概念によって論理的に整備したというわたしの解釈は、常識的な見解ではないかと思います。

誤解のないようにあわてて付加えておかねばなりませんが、空を縁起で説明したのはナーガールジュナで、般若経はそのような説明を一切しなかった、というのではもちろんありません。たとえば、上記に引用した梶山雄一氏は、最初期の(つまりナーガールジュナ以前の)般若経(『八千頌般若経』)でさえも、わずか三カ所だけではあるけれど、縁起が説かれている事実に注目し、それがナーガールジュナに影響を与えたのだろう、と考えておられます。

『八千頌』が縁起を説くことはめったにない。・・・『八千頌』が理論的に縁起を説くのは上記の三カ所においてだけである。しかしそれによって、『八千頌』は、すべて縁起したものは空である、という思想をナーガールジュナに手渡した。そして縁起即空の論理を完成することがナーガールジュナの仕事となったのである。

(梶山雄一、同書、194ページ)

さらに、中村元氏は、空と無自性と縁起の三つの概念の関係を、般若経の思想的発展史のなかで検討し、般若経は最初は空だけを説いていたが、後にはそれを無自性によって基礎づけるようになり、最後に縁起によって基礎づけるようになった、と述べられています。

まず、『八千頌般若』サンスクリット原本についてみるに、第一品から第七品までは般若空の単なる説明と般若経護持の功徳の賛嘆とに終始している。ところが第八品に至って初めて、「無自性なるが故に空である」として空観を無自性によって基礎付けようという試みがみられる。・・・ところが第二十七品以後になると・・・縁起が中心問題とされている。

これを『大品般若』についてみれば、一層明らかである。・・・最初の嘱塁品(第六十六品)以前をみるに、空観を基礎づけるに当たっては常に、「自性空の故に」・・・「自性、無なるが故に」などの説明が用いられている。ところが、第六十六品以後になると、「縁起の故に無自性である」という説明がみられる。すなわち第六十六品以前においては空観を無自性によって基礎づけていたが、第六十六品以後になると、その無自性をさらに縁起によって基礎づけている。・・・

さらに、『勝天王般若』についてみるならば、この傾向は一層顕著である。・・・[以下略]。

(中村元、同書、202〜204ページ)

これらのことからしても、やはり、最初空を主張したが、それは誤解を生むこととなり、その説明が必要とされることとなり、その結果として、空を無自性や縁起で説明する、という結果になったと考えるのが妥当ではないかと思います。

なお、「釈尊は世界苦が十二支の縁起で生じていることを悟ったのではなく、十二支の縁起が空であることを悟ったのではないでしょうか?」というもうひとつのご質問に関しては、半月さんのニフティ−サーブのフォーラムでのご意見でも読ませていただいた後に、お応えしたいと思いますが、わたしの基本的な立場(ブッダの悟りは縁起(依存関係)であるが、十二支の縁起(因果関係)ではない)は、部分的に、「空の思想 -- 第三章 縁起と因果」に述べていますので、参照していただけると幸いです。