さて、先日(5月25日頃)に、「仏教に関する来訪者の声」のほうに、メールを送らせ ていただいたのですが、まだ返答がなく、どうやら機械のトラブルもあったようなので、 消えてしまったのか、と思われますので、念のため再メールさせていただくことにしまし た。以下本文ですので、よろしくご査収ください。
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こんにちは、水野です。「キリスト教・聖書に関する来訪者の声」で、たびたびお世話に なっております。今回は仏教に関してお尋ねしたくメールいたしました。
『無我の思想』を読ませていただきました。
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しない(と)いう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バッ クス、473〜478頁)
ものが常住自存の実体(自性やアートマン)によって存在しているのではなく、様々な条件に依存して生起・消滅しているのだ、という縁起の観察は、無常であるものに執着するところに苦しみの原因があり、執着から解放されると苦しみから解放されるというブッダの救済思想の根拠ともなっています。もっとも古い仏典には次のように縁起の思想が記されています。
師は答えた。「メッタグーよ、そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。私は知り得るとおりに、それをそなたに説き示そう。世の中にある種々様々な苦しみは、執着を縁として生起する。・・・」(スッタ・ニパータ 1049-1051、中村元訳)
疑問に思うのは、縁起・無常を悟り執着心を捨てることによって、果たして本当に「生老病死」などの「悲嘆苦憂悩」を「征服する」ことが可能だろうか、という点です。
この疑問に答えるためには、悲苦はすべて執着心から生じるものなのか、という質問を考慮する必要がある、と思います。悲苦はすべて執着心から生じるものである、と言うことができて初めて、執着心を捨てれば苦から解放される、と結論できるはずだからです。
確かに、無常なものへの執着から生まれる苦はあります。例えば、キサー・ゴータミーの物語で、彼女が赤ん坊の死を悲しむあまり、「なんとか赤ん坊を生き返らせて欲しいといって、会う人ごとに訴え」るときの悲しみなどがそれです。その種の悲苦は執着によって起こっているので執着を断てば消滅させることができ、したがって、彼女が「いままで死者を出したことのない家」を捜してかけめぐるうちに、ブッダの言葉の意味を少しずつ理解して落ち着きを取り戻していった、というのもうなずける話です。
しかし、そのあとで彼女が「すがすがしい気持ちになっ(た)」というハッピーエンド(?)じみた結末には疑問を禁じえません。なぜなら、たとえ自分の間違った執着心に気付いてそれを捨て去ったところで、「赤ん坊の死」という悲しむべき事実に変わりはなく、「すがすがしい気持ち」になれるはずはない、と思うからです。執着による間違った悲しみとは違う本来の悲しみが、彼女の心には依然として残っていたはずではないでしょうか。
生まれたものどもは、死をのがれる道がない。老いに達し、そして死ぬ。じつに生あるものどものさだめは、まさにこのとおりである。・・・だから、師が教えられたように、人が死んでなくなったのを見るとき、かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ、とさとって、嘆き悲しみを捨て去れ。 (スッタニパータ、575〜590)
自分の経験からしても、わたしにはこういう考えによって悲苦が滅するとは思えないし、愛する者の死に対するこういう反応の仕方が人間らしいものとも思えないのです。悲しむべきときには素直に悲しむよりほかないのではないでしょうか。それは愚かな執着からではなく、人間のごく自然な情から生まれ出る悲苦であり、無我・縁起を悟っても消えることのない悲苦である、と思います。
まとめますと、人間には2種類の苦があるように思われます。つまり、執着によって生まれる皮相的な苦と、執着するしないに関わらず存在する根源的な苦です。後者は、この世に老病死がある限り、そして人間に感情がある限り、決してなくならないように思います。ゆえに、仏教の教えは、前者の苦に対してのみ有効で、後者の苦には無力ではないか、つまり、仏教は、苦を「軽減」するに過ぎず、「征服」するものではない、と思うのですが、どうでしょうか。
苦、特に死や死別という苦を完全に征服するには、どうしても死後の世界や復活などの空想的存在を持ち出さなくてはならないだろう、と思います。それらを信仰の対象であるとして受け入れなかったブッダの姿勢に共感こそすれ、もはやそこに「苦の征服」はない、あるのはただ「苦の受容」ではないか、と思う次第です。
いつもながら低レベルな質問で内心忸怩たるものがありますが、わたしにとっては大きな疑問でしたのでお尋ねした次第です。よろしくお取り計らいいただければ幸甚に思います。では失礼します。
わたしの拙文を読んで「仏教の教えによって悲苦を征服することは本当に可能か」といっ大問題に解答を出そうとされる勇気には圧倒されます(^^)。聖書は片手にのる一冊の本に収まりますが、仏典はそれを収めるのにライブラリーを必要とします。わたしの、言うことは、仏典を少しばかりかじったものの言葉として聞き流してください。
(1)死の征服
彼女が「いままで死者を出したことのない家」を捜してかけめぐるうちに、ブッダの言葉の意味を少しずつ理解して落ち着きを取り戻していった、というのもうなずける話です。しかし、そのあとで彼女が「すがすがしい気持ちになっ(た)」というハッピーエンド(?)じみた結末には疑問を禁じえません。
長尾氏の「すがすがしい気持ち」という解説は確かに正確ではありませんね。経の本文にもありません。しかし、話の全体から、どのようなことであったかは、容易に想像できますから、「ハッピーエンド(?)じみた結末」というのは揚げ足取りだと思います。
同じようなことは、
仏教は、苦を「軽減」するに過ぎず、「征服」するものではない、と思うのですが、どうでしょうか。
と言った表現にも見られるようです。どんな言葉でもそうですが、とくに翻訳語の場合はなおさらのこと、その言葉が使われている文脈(広くいえば仏典全体)の中にあるわけで、「征服」という言葉の意味も量の問題(全滅か、軽減か)の範疇で考えるものではないでしょう。
「征服」というのは、その言葉の意味からいっても、相手によって制御されるのではなく、相手を制御するということでしょう。インドの伝統的宗教の観念でいえば、死とはヤマという神の支配する領域なわけですが、そのため、死を克服することを、ブッダは「死の王(ヤマ)は見ることがない」といった表現もしています。「征服」という表現はそのようなお国柄の伝統に従って語られている言葉だと考えられるでしょう。
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずることができる人を、死の王は見ることがない。(スッタニパータ 1119、中村訳)
問われている問題は、したがって、仏教のいう「征服」とか「乗り越える」という言葉は、どのような事態のことであるか、ということだろうと思われます。
また、キサー・ゴータミの物語など、仏典に典型的に見られるメッセージは、人間の悲苦に対処するために、事実から目を背ける(祈祷や呪いや復活の奇跡などの信仰の世界に逃避する)ことを勧めるのではなく、逆に事実をありのままに認識するところから出発せよ、というメッセージです。そのため、仏典はその立場を
無明を破ること、正しい理解による解脱・・・(スッタニパータ 1107、中村訳)などとも表現しています。よく見渡してみると、ブッダの時代もわたしたちの時代も、事実に目をつむって空想の世界に逃避することを教える宗教はそこら中に転がっています。仏典がその立場を表現するのに、「征服」する、とか「乗り越える」といった表現を使用しているのは、この意味でも適切だと思います。耳ある者たちに不死の門は開かれた。信仰を捨てよ。(サンユッタ・ニカーヤ、中村訳)
(2)無執着と縁起
「無執着は、ブッダの最も基本的な教法」(中村元、『ブッダの人と思想』、13頁)とする仏教解釈があります。それは、ある意味(歴史的解釈)では正しいのですが、わたしの理解するところ(構造的解釈)とは少し違います。わたしの理解するところによれば、ブッダのもっとも基本的な教えは縁起・無我の教えです。すなわち、ものごとはそれ自体で成立しているのではなく(無我)、さまざまな条件と原因などに依存して成立し、それらがなければ成立しないという関係がある(縁起)。人間の悲苦も例外ではなく、いかなる条件や原因に依存して悲苦が生じ、また、いかなる条件や原因を取り除けば、悲苦が滅するのか、その関係を知ること(覚り)が、仏教における「救い」の起点となるわけです。これが仏教の本質あるいは基本原理といってよいと思います。
歴史的仏教では、この基本的な考え(縁起)にそって、執着心がしばしば取り上げられます。歴史的仏教は、執着心の問題を、もっとも深く追及していった宗教と言えるかもしれません。そのため、まるで、これが仏教の教えの中心であるような趣さえあるわけですが、ブッダの中心概念の論理的な相互関係(構造的解釈)から言えば、執着心の問題は、あくまでも、代表であって、原理ではありません。
したがって、無執着によってすべての悲苦が解決するとか、ましてや、「縁起・無常を悟」れば、なにもかも解決する、ということにはなりません。実際、怪我をして痛いのに「執着心を離れろ」などと教えるのは、おまじないをして怪我を癒そうとするのと同じ程度に、愚かなことでしょう。ブッダの教え(縁起)はまさにそういうことを否定したのです。
これがあるときにこれがある。これが生起するからこれが生起する。これがないときにこれがない。これが生起しないからこれが生起しない。(ウダーナ、中村訳)
怪我の痛みから解放されるためには、怪我の縁起(その縁って起こること)を知ることが必要なのです。そうしてはじめて、どのようにすれば、そもそも怪我が生じないかを知ることができるからです。縁起を悟るものが苦を征服するのです。
(3)仏教の主張と常識感覚
愛する者の死に対するこういう反応の仕方が人間らしいものとも思えないのです。悲しむべきときには素直に悲しむよりほかないのではないでしょうか。・・・それは愚かな執着からではなく、人間のごく自然な情から生まれ出る悲苦であり、無我・縁起を悟っても消えることのない悲苦である、と思います。・・・この世に老病死がある限り、そして人間に感情がある限り、決してなくならないように思います。・・・苦、特に死や死別という苦を完全に征服するには、どうしても死後の世界や復活などの空想的存在を持ち出さなくてはならないだろう、と思います。
最後の「どうしても死後の世界や復活などの空想的存在を持ち出さなくてはならない」という部分以外は、水野さんに同感するところがおおいににあります。そのように、「愛する」とか「人間らしい」とか「人間のごく自然な情」などという常識感覚でわたしたちは仏教に疑問を抱くわけですが、それらの感覚は、たとえば人間の遺伝子情報などとは異なって、「愛とは何か、人間とは何か、感情とは何か、自然とは何か」といった問いに関するわたしたちの主観的な判断を前提にしています。しかし、どうも、仏教というものは、そのようなわたしたちの常識感覚そのものに挑戦しているようなのです。つまり、仏教の側から言えば、わたしたちの常識感覚は妄想なのです。
わたしたちは、ついつい、「人間に感情がある」などと言ってしまいますが、仏教者ならば、「人間に感情がある」というような見方はしないだろうと思います。むしろ、「感情などない」(実体として存在しない、空である)と考えると思います。
意にかなうこと、意にかなわないこと、倒錯を条件として、貪り、怒り、愚かさが生じるのであって、それゆえに実体として貪りや怒りや愚かさは存在しない。(ナーガールジュナ、空七十論 59、瓜生津降真訳)
感情、たとえば「怒り」のような感情は、人間に存在しているのではなく、「意にかなわないこと」を条件として生起するだけである、というわけです。すでに説明いたしました縁起です。このように見る習慣を身に付ける者が、「怒り」の征服者(心にゆとりを持つ者)となる、というのが仏教的考えだと思います。
しかし、なによりも、仏教の考え方とわたしたちの常識感覚のあいだにある違いの最大のものは、自我の捉え方だと思います。わたしたちの常識感覚は自我を実体として見るわけです。そのため、ある人は「どうしても死後の世界や復活などの空想的存在を持ち出さなくてはならない」というところに行ってしまい、また他の人は「死んだら無となる」といったところに行ってしまうわけです。霊魂主義も唯物論も自我を実体として見るからです。わたしたちの常識的見解ではだいたいそのどちらかです。それに対して、仏教は第三の見方(中道)を取ります。
カッチャーヤナよ、この世間の人々は多くは二つの立場に依拠している。それは、すなわち有と無である。・・・人格を完成した人は、この両極端説に近づかないで、中[道]によって法を説く。(サンユッタニカーヤ、中村訳)
それが縁起です。自我を実体として捉えないので、霊魂主義にも唯物論にもならないわけです。著名な禅者の故久松真一氏は、そのことを、生存中、家族や周りに人に「自分は死なない」と語って笑っておられたそうです。まったく、そのとおりなわけです。覚ったものにとっては、死ぬべき実体がないのだから、死後は無になるとか死後も永遠に生き残る、という話にはならないわけです。いわゆる仏教的な悟りによってなにが変わるかといえば、この「自分」というものの捉え方がラディカルに変わるのだ、とおもわれます。
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずることができる人を、死の王は見ることがない。(スッタニパータ 1119、中村訳)
「自我に固執する見解」、自我に関するわたしたちの常識感覚、それを認めないのが仏教の立場で、もしその主張が正しいとすると、これは、たとえば、動いているのは地球ではなく太陽の方であるという、人類が何万年もの間持ち続けていたあやまった常識感覚を覆すのに相当する、はなはだ革命的な考え方であると言えるでしょう。
そこで、人間の愛情についても、仏教の立場はわたしたちの常識感覚とは、かなり異なっているように思えます。わたしたちが通常、ポジティブに考えている愛情は、執着心として、ネガティブに捉えられています。
わたくしはこのように聞いた。あるとき尊師(ブッダ)は、サーヴァッティー市で、ジェータ林の園にとどまっておられた。そのとき、悪魔・悪しき者は尊師に近づいた。近づいてから、尊師のもとで、この詩句を唱えた。
子ある者は子について喜び、また牛のある者は牛についてよろこぶ。 人間の喜びは、執着する依りどころによって起こる。 執着する依りどころのない人は、実に、喜ぶことがない。(尊師いわく、)
子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。 人間の憂いは、執着する依りどころによって起こる。 執着する依りどころのない人は、憂うることがない。
そこで、悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。
(サンユッタ・ニカーヤ、中村元訳)
わたしたちは、水野さんのおっしゃるように、「愛する者の死」に直面して「悲しむべきときには素直に悲しむよりほかない」わけです。わたしたちは、自分たちのわが子が死ねば、たとえようのない悲しみと苦しみに陥ることでしょう。しかし、死んだ人が隣のうちの子であったら?隣のうちの親戚の子であったら?隣のうちの親戚のおじさんが働いている会社の同僚の子であったら?もう涙の一滴もでないのではないでしょうか。わたしたちの「愛情」は、自分を中心にして、そこから離れるほど、稀薄になっているようです。
ただひとりの人間に対する愛は、野蛮というものだ。なぜならそれは、その他のすべての人間を犠牲にしてなされるものだからだ。(67)なんだって! 愛からでた行為は<非利己的>であるとでもいうのか?なんたるばか者だ ---!・・・ 実際に犠牲を払った者なら、自分がその代りに何かを望み、それを手に入れたことを -- おそらくは自分の何かを捧げた代償として自分に必要な何かを手に入れたことを -- 知っている。(220)
結局のところ、ひとは自分の欲望を愛しているのであって、欲望されたそのもの[対象]を愛しているのではない。(175)
(ニーチェ、善悪の彼岸、信太正三訳)
わたしたちが、せめて、ここら辺まで踏み込んで人間の「愛情」について洞察できれば、仏教の「愛情、執着」等の言葉への理解は、射程距離にある(それほど「不自然」であるとは思えなくなる)といってよいのではないでしょうか。
人々は「わがものである」と執着したもののために悲しむ。[自己の]所有しているものは常住ではないからである。・・・われに従うひとは、賢明にこの理を知って、「わがもの」という観念に屈してはならない。(スッタニパータ、中村元訳)「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。(ダンマパダ、中村元訳)
(4)最初の疑問
疑問に思うのは、縁起・無常を悟り執着心を捨てることによって、果たして本当に「生老病死」などの「悲嘆苦憂悩」を「征服する」ことが可能だろうか、という点です。・・・自分の経験からしても、わたしにはこういう考えによって悲苦が滅するとは思えないし・・・
わたしにできるのは、せいぜい、仏教の語る言葉を、わたしにできる限りの範囲で、理解できる射程距離まで案内することだけです。「縁起・無常を悟り執着心を捨てることによって、果たして本当に・・・」といった種類の問いに答えるためには、本人が実際に「縁起・無常を悟り執着心を捨てる」ところに立ってみなければならないでしょう。とくに、「自分の経験から」判断を下そうとするなら。