水野です。『仏教の教えによって悲苦を征服することは本当に可能か』に、長文にわたる丁寧な回答をいただき、どうもありがとうございました。

わたしたちは、水野さんのおっしゃるように、「愛する者の死」に直面して「悲しむべきときには素直に悲しむよりほかない」わけです。わたしたちは、自分たちのわが子が死ねば、たとえようのない悲しみと苦しみに陥ることでしょう。しかし、死んだ人が隣のうちの子であったら?隣のうちの親戚の子であったら?隣のうちの親戚のおじさんが働いている会社の同僚の子であったら?もう涙の一滴もでないのではないでしょうか。わたしたちの「愛情」は、自分を中心にして、そこから離れるほど、稀薄になっているようです。

極端な話をされているように思うのですが・・・。

人間の行動範囲には限界があるのですから、人間の愛情が、「自分を中心にして、そこから離れるほど、稀薄になってい」くのは、しかたがないのではないでしょうか。「隣のうちの親戚のおじさんが働いている会社の同僚の子」が死んでも涙が出ないからといって、ゆえに、自分の子どもが死んだときに涙が出るのは自分本位な執着心によるのだ、とネガティブに考えるとしたら、それは行き過ぎた正義感でしょう。

同様に、佐倉さんが引用された、ニーチェの

ただひとりの人間に対する愛は、野蛮というものだ。なぜならそれは、その他のすべての人間を犠牲にしてなされるものだからだ。

なんだって! 愛からでた行為は<非利己的>であるとでもいうのか?なんたるばか者だ ---!・・・実際に犠牲を払った者なら、自分がその代りに何かを望み、それを手に入れたことを -- おそらくは自分の何かを捧げた代償として自分に必要な何かを手に入れたことを -- 知っている。

結局のところ、ひとは自分の欲望を愛しているのであって、欲望されたそのもの[対象]を愛しているのではない。

などの言葉も、極端な観察ではないでしょうか。確かに、100%非利己的な愛はないでしょうし、愛にはニーチェが言うような利己的な傾向も少なからずあるでしょうが、だからといって、一般的に見られる愛や愛情のすべてを否定的にとらえる必要はないように思います。愛する者の死を悼む気持ちがすべて利己心から出ているとは思えません。

事実、ブッダも、自分の愛する弟子サーリプッタやモッガラーナが死んだときにはひどく悲しんだのではないでしょうか。「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観」じ、「死の王は見ることがない」ひとだったはずのブッダが、愛する者の死に接して大いに悲しんだということに、わたしは逆に共感します。

それが縁起です。自我を実体として捉えないので、霊魂主義にも唯物論にもならないわけです。著名な禅者の故久松真一氏は、そのことを、生存中、家族や周りに人に「自分は死なない」と語って笑っておられたそうです。まったく、そのとおりなわけです。覚ったものにとっては、死ぬべき実体がないのだから、死後は無になるとか死後も永遠に生き残る、という話にはならないわけです。いわゆる仏教的な悟りによってなにが変わるかといえば、この「自分」というものの捉え方がラディカルに変わるのだ、とおもわれます。

縁起の法則に基ずいて考えれば、すべてのものはそれ自体で存在しておらず、実体のないもの、つまり、空です。確かに、「覚ったものにとっては、死ぬべき実体がない」と言えるでしょう。それを間違いだとは思わないにしろ、その程度(?)の認識によって果たして本当に、周囲に「『自分は死なない』と語って笑」うというような悠然たる境地を実現できるものかな、と疑問に思ってしまいます。

「死ぬべき実体がない」と頭でどれだけ理解しても、現実に今ここにある体にやがて押し寄せてくる老病死は、(肉体的意味だけでなく精神的意味でも)やはり苦しいものなのではないでしょうか。「愛する者」もまた実体を持たない空のものだとどれだけ理屈で分かっても、現実に体験する「愛する者との死別」が悲しいことには、何ら変わりがないのではないでしょうか。

「征服」というのは、その言葉の意味からいっても、相手によって制御されるのではなく、相手を制御するということでしょう。

縁起の思想が間違いだとは思いませんが、それによって悲苦を制御することができる、という主張が、どうもピンと来ません。「理屈のうえではそうかもしれないけれど、現実はそんな簡単なものではないでしょう」と言いたくなってしまいます。理屈ではなく現実を見るとき、結局ひとは悲苦を制御することはできず、制御される存在、・・・悲苦に対して悠然とかまえていられるような強いものではなく、悲苦は悲苦として受容しながら辛うじて乗りこえていく、そんな存在ではないでしょうか。

仏教を充分理解したうえで異論を唱えている、というより、仏教をまだよく分かっていないがゆえの初歩的な疑問を、恥ずかしながら述べさせていただいております。大体わたしが、悲苦について他人に云々できるほどの経験をしてきたのか、という気もしますが・・・。前回と同じような質問で恐縮ですが、何かお答えがいただければ幸甚です。



(1)執着がなければ悲しみもない

人間の行動範囲には限界があるのですから、人間の愛情が、「自分を中心にして、そこから離れるほど、稀薄になってい」くのは、しかたがないのではないでしょうか。「隣のうちの親戚のおじさんが働いている会社の同僚の子」が死んでも涙が出ないからといって、ゆえに、自分の子どもが死んだときに涙が出るのは自分本位な執着心によるのだ、とネガティブに考えるとしたら、それは行き過ぎた正義感でしょう。
悲苦や執着に関する事実の問題と善悪評価(正義感)を混同されておられるのではないでしょうか。わたしは、善悪の価値評価ではなく、執着がなければ悲しみもないという事実を、あかの他人が死んでも涙にくれることはないという卑近な例で示したのです。これは、前回の水野さんの

人間には2種類の苦があるように思われます。つまり、執着によって生まれる皮相的な苦と、執着するしないに関わらず存在する根源的な苦です。後者は、この世に老病死がある限り、そして人間に感情がある限り、決してなくならないように思います。

というご意見にお答えしたものです。つまり、たとえ「人間に感情があ」り、かつ死の事実に直面しても、それだけでは、何の悲しみも苦しみも生じないということです。このことは、執着によって生まれる悲苦は皮相的なものではなく、むしろ人間の悲しみの本質は執着であることを示しています。

ところで、人間の苦しみは執着だけに起因するのではなく、たとえば、貧困や病気など、社会的・自然的要因もあるのですから、仏教が人間の悲しみや苦しみの問題をほとんど心の問題としてしか捉えてこなかったことに対して、わたしは批判的なのですが、それでも、人間の悲苦を課題として取り上げた仏教が、人間の執着心の問題に切り込んでいくことになった歴史には、十分納得できる理由があると思っています。人の悲しみは執着心なくしては生じないからです。


(2)人間の愛情とニーチェの観察

確かに、100%非利己的な愛はないでしょうし、愛にはニーチェが言うような利己的な傾向も少なからずあるでしょうが、だからといって、一般的に見られる愛や愛情のすべてを否定的にとらえる必要はないように思います。

ニーチェの指摘は、「100%非利己的な愛はない」ではないとか、「利己的な傾向も少なからずある」、といった量の問題ではなく、たとえ世に喝采を浴びる純粋な<非利己的>な愛情であっても、よく観察すれば、それは自己愛の変形である、ということなのではないでしょうか。極端なのではなく、一歩踏み込んだ観察だと思います。

これは、人間の愛情のもつ別の側面に目をつむりたがる人間(ニーチェの場合はとくにキリスト教)に対する批判でしょう。わたしたちにせめてこのニーチェぐらいの洞察があれば、仏教の取り扱う悲しみと執着の関係も理解しやすくなる、というのが前回のわたしの指摘でした。


(3)縁起と自我

縁起の法則に基ずいて考えれば、すべてのものはそれ自体で存在しておらず、実体のないもの、つまり、空です。確かに、「覚ったものにとっては、死ぬべき実体がない」と言えるでしょう。それを間違いだとは思わないにしろ、その程度(?)の認識によって果たして本当に、周囲に「『自分は死なない』と語って笑」うというような悠然たる境地を実現できるものかな、と疑問に思ってしまいます。

まず、「笑い」に関する単純な誤解について。「自分は死なない」と笑っておられた、というのは、「悠然たる境地」(これはわたしの言葉ではなく、水野さんが想像をたくましくしてわたしの舌足らずの物語に付け加えた言葉です)などではなく、人間は死ぬに決まっているのに「おれは死なないよ」といって周囲を笑わせていた、ということです。笑いは、「悠然たる境地」からではなく、この単純な冗談としての笑いです。

この冗談の中で、単なるジョークではない、仏教思想の一つの核心が語られているわけです。それが自我を人間の皮膚の内側に詰まっているものと同一視しない考え方です。それを同一視するのが自我実体論者(霊魂主義者や唯物論者)です。仏教はこの自我理解において、思想史上きわめて特異な立場に立っています。

しかし、そのような立場は、水野さんが疑問を呈しておられるように、「その[縁起の法則]程度(?)の認識によって果たして本当に」、現実化できるのでしょうか。

同じ「法則」に関する認識でも、その認識程度には個人差というものがあります。例えば、 E=mc というエネルギーと質量の関係を示す単純な公式があります。この同じ公式を見ても、その公式の意味することを理解するその程度には著しい個人差があります。たとえば、ある意味では、これは中学生程度の数学や理科の知識があれば誰にでも理解できると言えます。しかし、彼らの認識と、このまったく同じ公式を見て「原子爆弾が造れる」と思いつく物理学者の認識との間には、著しく大きな差があります。

何がその差を生んでいるかと言えば、それは公式そのものではなく、公式が含意する事柄に関する個人の経験(実験や観察)や知識の違いです。中学生程度の経験や数学や理科の知識では、E=mc の公式と原子爆弾のつながりが見えません。この公式がそれを見るものに与えるインパクトには著しい個人差があります。

このことはすべての認識について言えるでしょう。「縁起の法則」に関する認識も例外ではあり得ません。一つの物理公式が地球全体を破壊しうる兵器を作り出す行為に導くことが、個人によっては、ありうるように、「縁起の法則」が古い自我観念を崩壊させるという事態も、個人によっては、ありうるかもしれないのです。


(4)「何ら変わりがない」のか、それとも、何か変りがあるのか

「死ぬべき実体がない」と頭でどれだけ理解しても、現実に今ここにある体にやがて押し寄せてくる老病死は、(肉体的意味だけでなく精神的意味でも)やはり苦しいものなのではないでしょうか。 「愛する者」もまた実体を持たない空のものだとどれだけ理屈で分かっても、現実に体験する「愛する者との死別」が悲しいことには、何ら変わりがないのではないでしょうか。
もちろんそれはそうですが、問題は、「頭」や「理屈」だけでなく、自我意識を転換した者にとっては、「何ら変わりがない」のではなく、もしかしたら、なにかが変るのではないか、ということです。

比丘たちよ、いまだ正しき教えを聞くことなき凡夫は、楽受も感じ、苦受も感じ、また非苦非楽受も感ずる。比丘たちよ、すでに正しき教えを聞ける聖弟子もまた、楽受も感じ、苦受も感じ、また非苦非楽受も感ずる。では比丘たちよ、有聞の聖弟子と無聞の凡夫とは、いかなる点において異なっているであろうか。

比丘たちよ、よく聞き、よく思ってみるがよい。いまだ正法を聞かざる凡夫は二種の受を感ずる。・・・それはたとうれば、第一の矢をもって刺され、さらに第二の矢をもって刺されるに似ている。・・・それに反して、すでに教法を聞くことを得たる聖弟子は、ただ一つの受を感ずるのみである。・・・これをたとうれば、第一の矢をもって刺され、されど第二の矢を受くることなきに似ている。なんとなれば、彼はすでに正法を知るがゆえに、もし五欲において楽受をうけても、彼はこれに愛執することなきがゆえに、その心をさわがしその意を乱すにいたらず。またもし苦受を味わうことがあっても、彼はそれに対して瞋恚を生ずることなきが故に、また煩悩の擾乱するところがない。これを第二の矢を受くることなしと言うのである。

(『相応部経典』36,6「矢(箭)」、増谷文雄訳)

経典はいわばブッダの教えの宣伝ですから、当たり前のことですが、ブッダの教えを聞いたものとそうでないものとの悲しみや苦しみの経験の間には、共有される悲苦(第一の矢)もあるけれど、何かが違うんだ(第二の矢を受けず)と主張しています。

いろいろな説明が可能だと思いますが、ここでは縁起との関りで二つほどあげておきたいと思います。ひとつは、いろいろな悲しみや苦しみに襲われたときに、縁起主義者の取る行為は、いかなる条件に依存してその状態が生起し、どのようにすればその条件を生まないようにすることができるか、また、その状況に対するどんな対応がどんな結果を生むことになるか等々、様々な縁起関係を明らかにすることでしょう。そのことが「第二の矢を受けず」ということにつながると考えられます。同じ愛する子に死なれても、たとえば、その悲しみが子供への自らの執着心から来ていることを深く自覚している者とそうでない者との間には、やはり、違いがあるだろうと想像されます。

もう一つは、例えば、老いや死の苦しみは、やはり、いつまでも若くありたい、いつまでも生き続けていたいという執着心と関係しており、その執着心は、自己の正体を皮膚の内側に詰まっているモノと同一視する自我意識と関係していると考えられます。ところが、仏教における覚者とはまさにこの自我意識を転換した者とされています。

仏道を習うというは、自己を習うことなり。自己を習うというは、自己を忘るることなり。自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり。(道元、『正法眼蔵』)

そのために、同じ老いや死でも、覚者とそうでない者との間には、やはり、違いがあるだろうと想像されます。覚者の経験について知りたいのでしたら、山門をくぐるなり、彼らのサイトを訪問するなりされることをお勧めせねばなりませんが、仏教徒でもないわたし自身のことをいえば、縁起の考え方が含意する事柄へのさまざまな考察は、たとえば<死>に対するわたしの態度に決定的な影響を及ぼしたという自覚があります。(「ある仏教徒の『死後の世界』観」)わたしは、むろん、これを仏教の覚りと同一視するものではありませんが、どこかつながるところがあると勝手に思い込んでいます。

道元によれば、「自己を忘るる」というのは没我状態ではなく、むしろ、「万法に証せらるる」(自己がすべてのものに証せられる)、というわけですが、この「万法に証せらるるなり」をいかに解釈するかが仏教解釈のひとつの重要な鍵です。それを、わたし自身に納得できる言葉で語れば、<自己を実体(魂とか肉体)としてみる見方から、世界とのかかわり方としてみる見方への転換されること>になるわけです。