佐倉様、初めまして。

HP、興味深く拝見しております。 工藤 卓と申します。仏教や思想に興味を持っております。仕事は神経科学の研 究なので科学を大変尊んではいますが、その限界も多少は心得ているつもりです。 しかし、思想的な議論に無理矢理科学的なtermを持ち込むことを忌み嫌う者です (近年、宗教関係でそう言う議論を随所で見るのでうんざりしています、たいてい間違ってることが多いので。。。。(^^;))。

 無我の思想、大変興味深く拝見いたしました。また、それに関しての議論のやりとり、関連して「死語の世界観から」のやりとり等拝見しました。その他のトピックも追々拝読させていただきたく思っております。

 混乱した議論の中で、佐倉様が辛抱強く、なんとか語の定義と議論の次元の固定をして共通の地平にたったやりとりを展開なさろうとしている御様子に感銘いたしました。そこを御見込みして(^^;)佐倉様にとっては御迷惑かもしれませんが、私が従来抱え込んでいる疑問にも辛抱強くおつきあい下さるのではと考え、一つ質問させて頂こうと思います。

 仏教の悟りに関してです。私はどうも極端に走ってしまう傾向がありまして、いつも疑問を抱きます。例えば、いつも自転車に鍵をかけるのが面倒に思います。。世の中に、自転車を盗むような人がいなければこんなことしなくてもいいのに、と思います。盗まれることをおそれる、執着するから煩わしいのだ、と思ってある日鍵をかけなかったとします(以下は空想で現実ではありません)。するとすぐ盗まれた。持っているから盗まれるのだから、持たぬことにしたら平安である。だから私は自転車をもてなくなった。。。。

自分自身はともかく、夜暗い道を嫁さんが帰ってくるのが心配です。どこかで襲われたりはしまいか。こんな不安は、嫁さんがいなければいいわけです。そう言う執着を絶てば心配もない。かくして私は嫁さんを持たなくなった。。。いや、そう言う個々のことではいけない、たとえ自分に関係がなくってももし誰か夜道で襲われる人があったら。。と考えるとその人が気の毒で夜も昼も寝られぬ。かくして、私は現世にいられなくなった。。。。。

杞憂でありましょう。しかしこの杞憂に対して、ただ気にするな、と言うならば、縁起の理法も諸法無我もいりますまい。中庸こそ大事、執着しすぎることがだめ、とだけ言っておればいい。諸法無我、一切皆空、諸行無常なんていうと、本当にそうだと思ったら出家するしかなくなる。。様な気がします。(^_^;)。。違うならば、是非その辺を論理的にお聞かせいただけたら。。と言うのが、私の質問の趣旨なのです。。

全人類の無事を心配する最後の例は極端に過ぎるとしても、もし全人類がそのように考察して出家して、子供が産まれなければ人類は絶えるでしょう。そうしたら、生すらなく、病も老いも死もない。畢竟涅槃寂静であるが、これは究極的なニヒリズムに堕する。仏教の教えはそんなものではなく、もっと現実をよりよく生きるためにあったはず。その思いは釈尊の説法にあふれていたと信じます。でも、字句通りに涅槃寂静を読んでしまうと、そこは自他不二、一切皆空にして且つ空もまた空、生もなくば死もなく、価値や関連もない世界。どうしてもニヒリズムの観念にとらわれます。

しかし、決してそうではないはずだというのが、昔の禅僧の言動や行動を記した書物からは伺える。絶後蘇生、なんて書いてあります。悟ってみたら何も変わらぬ、などと言われては混乱するばかり。自分勝手に公案を参究せざるを得ないような状態です。私の疑問は、「どこから相対差別執着のこの世に帰ってくるのか」もしくは、現実と、涅槃寂静を重ね合わせて生きる秘訣は何か?別の言で言えば、「唄うも舞うも矩の声」と言うとき、その舞や謡が芸術として成立しうるバランスは奈辺にあるのかということです(つまり、自他不二ならば芸術も存在しない、もし、芸術として味わうならばそこには必ず認識が発生し、それに「対して」感動が無くてはならぬ。また、発する者に明確な意図が無くてはいけない。それがないと、唄も小川のせせらぎに等しい。それともそれを指している語?)。

 わかりにくいでしょうね。自分自身そう思いますが、なかなか表現できません。もし、この愚問におつきあい下さって逆に質問して頂いたら私の疑問の点が浮き彫りになるかもしれません。仏教的な議論が出来る方出来る方にこんな疑問を投げかけています。。。。。。。。。いつも質問の意味がよく分からないと言われますが。。。(^^;)

執着を断つ、悟る、涅槃寂静 -- 仏教におけるもっとも本質的な問題、すなわち仏教の「救済論」がここで取り上げられているのだと思います。

「救済」という言葉は、仏教の言葉ではありませんが、仏教が単なる哲学(愛知)ではなく、ながく、宗教のひとつとして理解されてきた理由の一つは、キリスト教やその他の宗教の持つ「救済」の概念に相当するものが、仏教にも見いだされるからだろうと思います。そこで、わたしは、「救済」という概念から、わたしの考えを述べてみたいと思います。


【苦からの救い】

聖書(ユダヤ教・キリスト教)における救済とは、罪と罰からの救い、すなわち、人類の支配者・絶対王としての神とその律法に従わなくなった罪人たる人間、神の主権に対する反逆者として罰せられるべき人間が、悔い改め、王神に許されて、再び王神の支配と恵みの下に生きることができるようになることを指します。

それに対して、仏教における救済とは、苦からの救い、すなわち、「生老病死」などの苦しみを生じさせている原因や条件を作りださないことによって、苦しみから解放された境地に立つことをを指します。そのことを、端的に表しているのが「縁起」(苦は何かに縁って起こっている、それがないとき苦が起こらない)や「四諦」(苦があり、苦の原因があり、苦の滅却があり、苦の滅却に至る道がある)などの仏教の中心的教えでしょう。

仏教の教えは複雑にして膨大なものがありますが、つまるところ、この「苦からの救い」に関する教えである、と言えます。したがって、苦からの解放の教え(縁起)こそが仏教の基本原理である --- これが、複雑で膨大な仏教思想を見渡すときの重要な視点であると思われます。

この視点が重要だと思われるのは、特に、仏教と文明との関係を論じるときです。仏教は、南アジアから、東南アジア、さらに極東アジアから、今では、欧米諸国へと、さまざまな文明に影響を与えるだけでなく、それぞれの文明の影響を受けながら、変化を続けてきています。したがって、なにがブッダの思想の本質的なものであるか、という視点がなければ、仏教が住みつくことになった所の、単に土着文明の考えに過ぎないものと仏教の教えを区別することができなくなってしまうからです。

たとえば、アメリカ人仏教徒が、日本から伝わってきた仏教の中から、先祖供養やら灯籠流しなどの習慣や考え方を、「ブッダの教えではなく、日本文化の伝統にすぎない」として排除しても、それは極く当然です。


【解脱・涅槃寂静】

字句通りに涅槃寂静を読んでしまうと、そこは自他不二、一切皆空にして且つ空もまた空、生もなくば死もなく、価値や関連もない世界。どうしてもニヒリズムの観念にとらわれます。
仏教の救済論、すなわち、この「苦からの救い」に関するブッダの教えは、仏典の中では、しばしば、生死の流転の生涯から、再び生〔したがって死)を受けることのない世界へ解脱し、涅槃寂静の世界に至ること、という言い方で語られています。このような言い方の中には、救済論以外のもの、人間の生と死の世界に関する存在論(形而上学的世界観)が含まれています。

仏教の救済論がこのような言い方で語られているのは、よく知られているように、仏教が、そのような救済思想に含まれる形而上学的世界観が人々の考え方を支配するようになっていた、ある特殊な時代のある特殊な社会のなか(ウパニシャッド時代以降のネパール・インド)に生まれ、その中で、広まっていったからです。

同じインドでも、その少し前の時代では、人間は輪廻をくり返し、それから逃れるのが救いである、といった考え方はなかったわけで、たとえば、ブッダが、ヴェーダの時代やブラーフマナ時代に生まれていたならば、かれはそんな言い方で救済論を語ることは不可能だったわけです。そこで、仏教の救済論から、このようなインドの土着文化の垢(輪廻転生と涅槃の形而上学的ドグマの世界観)を洗い落とせば、ブッダが語ろうとした本質が、浮かび上がるわけです。

しかも、ブッダ自身が形而上学的ドグマの無用を説いている(「無記」)わけですから、そのような垢取り作業そのものが、実は、仏教の救済論・実践論に含まれていると考えられます。

マールンキャプッタよ、人間(如来)は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間(如来)は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間(如来)は死後も存在するという考え方があろうと、人間(如来)は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。

(「毒矢のたとえ」より)

マールンキャプッタは、ブッダが涅槃寂静(輪廻から解放された後の世界)がどのようになっているかというようなこと(形而上学的問題)に答えてくれないので不満なのです。しかし、ブッダは、悲嘆苦憂悩を征服することこそがかれの教えだと答えるわけです。ここには、疑う余地のない明白さで、ブッダの教えの本質がどこにあるかが語られています。


【執著】

執着を絶てば心配もない。・・・・かくして、私は現世にいられなくなった・・・・もし全人類がそのように考察して出家して、子供が産まれなければ人類は絶えるでしょう。そうしたら・・・これは究極的なニヒリズムに堕する・・・・
たしかに、仏教は執著について沢山語っています。「仏教とは執著離脱教だ」とでも言えそうです。
わたくしはこのように聞いた。あるとき尊師(ブッダ)は、サーヴァッティー市で、ジェータ林の園にとどまっておられた。そのとき、悪魔・悪しき者は尊師に近づいた。近づいてから、尊師のもとで、この詩句を唱えた。
 子ある者は子について喜び、また牛のある者は牛についてよろこぶ。
 人間の喜びは、執着する依りどころによって起こる。
 執着する依りどころのない人は、実に、喜ぶことがない。 

(尊師いわく、)

 子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。  人間の憂いは、執着する依りどころによって起こる。  執着する依りどころのない人は、憂うることがない。

そこで、悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。

(サンユッタ・ニカーヤ、中村元訳)

人を幸福にさせているものこそが、実は、人を不幸にさせる当のものでもある。人間の執著のもつ問題をこれほど端的に語った言葉をわたしは知りません。こうして、執着してはならない、という言葉が仏典のあらゆるところに見られるようになります。
「極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のために、洲(避難所)を説いてください。あなたはこれ(苦しみ)がまたと起こらないような洲(避難所)をわたしに示してください。親しき方よ。」

師(ブッダ)は答えた。

「カッパよ。極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のための洲(避難所)を、わたくしは、あなたに説くであろう。いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと --- これが洲(避難所)に他ならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅ある。」

(スッタニパータ1092〜1094、中村元訳)

この言葉も、ブッダのニルヴァーナ論が、どこか特別の世界に入ることでもなく、非存在と化すことでもなく、苦からの解放そのものであることを示していますが、中村元氏もこのブッダの言葉を解説して、つぎのように述べられています。
なぜ無所有と無執着が、老衰と死の消滅になるのでしょうか。結論から言えば、肉体や心をわがものと思い執着すると老衰が実体化し、死が存在することになります。「我」がなくなりわがものと思うこともなくなると、我がないのですから老衰や死はありません。

(『ブッダの人と思想』、NHKブックス、89頁)

わたしは、この中村元氏の解釈を正しいものだと思っています。なぜなら、ブッダはしばしば次のように語っているからです。
人々は「わがものである」と執着したもののために悲しむ。所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである。・・・・人が「これはわがものである」と考えるもの、--- それは死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理を知って、わがものという観念に屈してはならない。(スッタニパータ、中村元訳)

「我有り」と考える不当な思惟の根本を制止し、内に存するすべての妄執を制するために、心して学べ。(同上 916)

つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は見ることがない。 (同上 1119)

執着を離れなさいというブッダの教えは、わたしたちが非存在と化することではなく、「我有り」「わがもの」という誤った妄念からわたしたちが目覚めることのようです。

執着を離れることが、限りなく人間の非存在に結びつくのは、むしろジャイナ教です。

ジャイナ修行者は無所有ということを徹底し、一糸もまとわないで蚊や蠅などに身を曝して裸形で修業していた。・・・かれらは飲食を制限し、しばしば断食を実行し、断食による死が極度に称賛されている。

(中村元、『インド思想史』、岩波全書、50〜51ページ)

仏教と同じように執着を離れることを教えたジャイナ教は、仏教と異なって人間の本質を人間の内側に住む<永遠の魂>と見ています。すなわち「我有り」の思想です。本質的に「我有り」の思想が執着を離れることを教えようとすれば、結局、限りなく人間の非存在に結びついてしまうのは、論理的必然といってよいでしょう。

ブッダの思想が執着を離れることを教えながら、ニヒリズムに堕することがないのは、無我の思想のゆえであったと考えられます。


【禅と仏教】

私の疑問は、「どこから相対差別執着のこの世に帰ってくるのか」もしくは、現実と、涅槃寂静を重ね合わせて生きる秘訣は何か?別の言で言えば、「唄うも舞うも矩の声」と言うとき、その舞や謡が芸術として成立しうるバランスは奈辺にあるのかということです(つまり、自他不二ならば芸術も存在しない・・・)
ここで語られている「相対差別」と「自他不二」の考えは、禅(特に臨済系の鈴木大拙や西田幾多郎の思想的影響を受け継ぐ京都学派)の流れを汲むものだと思いますが、わたしは、そのような考えを、ブッダの思想のなかに見いだすことはできません。

仏教思想史においても、かの有名なサムイェーの宗論(インド仏教中観派を代表するカマラシーラと中国仏教禅を代表する摩訶エンとの間の論争)で、そのことを指摘されて、禅仏教は論争に敗退しています。

中国で最初に仏教を受け入れたのは道教思想の師家たちですが、禅思想の「自他不二」の考え、存在の根源は一つであることを前提にする一元論的な禅の仏教理解は、「道(ダオ)」を唯一実在とする道教思想を仲介にした仏教理解なのではないでしょうか。

わたしは、仏教の本質を、縁起の思想にあると考えていますから、縁起の思想を否定する考え方を仏教として受け入れることはできません。もし存在の姿が「自他不二」の一元的世界であるなら、そこでは関係性(縁起)が否定されてしまいます。したがって、一元論的な禅の仏教理解は間違っていることになるでしょう。それは、個々独立して存在があると考る(それゆえ関係性が否定される)説一切有部の存在論の、ちょうど反対の極の誤りであると思います。

芸術とは、作者と作品、作品と鑑賞者の関係ですから、おっしゃる通り「自他不二ならば芸術も存在しない」わけです。仏教の縁起思想が言うように、すべてはさまざまな相互関係によって成立しているのであって、存在の姿は、禅が言うような「自他不二」ではない、ということにでもなりましょうか。

仏典を見る限り、ブッダの洞察は、すべては縁起の関係によって成立しており、人間苦もそうであって、人間苦を生じさせている原因や条件を取り除くことによって、人間苦を超克することができる、というものです。「現実と、涅槃寂静を重ね合わせて生きる秘訣は何か?」という問いは、禅思想の存在論における特殊な形而上学的想定から生じる問いであって、ブッダの思想から言えば、「どうやったら苦しみから抜け出せるか」という問いだけが、問題になるのではないかと思います。