佐倉様 今晩は。
先日メールしました工藤です。
「空の思想」興味深く拝見いたしました。縁起が単なる因果関係に非ず、と言う解釈は大変共感を覚えました。また、そのことを明確にしたナーガルジュナの業績に賛嘆いたしました。
しかし、佐倉様の論理で、その議論の過程に無理がある様に思えてどうしても気になりましたので、謹んでご指摘いたします。
対偶の理屈は正しいのですけれど 「PならばQ」 と、「PからQが生じ」、とははっきり違います。この単純化は乱暴です。「PならばQである」とき、Pは少なくともQの部分集合になります。また、PかつQの部分(=P)の要素は、Qとしての属性を完全に持っています。つまり、PにふくまれるQの要素に着目して言えばQであってかつPである。しかし、「PからQが生じ」ではどうでしょう?少なくともPはQの「原因もしくは前提」の部分集合であって、PはQ足り得ません。QはPから生じる別のものであって、QはPではない。故に、この論議は、論理的に厳密ではない。
実例で考えてみたほうが誤りにくいです。まず、気楽に印象で考えてみます
「行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。」行は無明の原因(または前提)の全集合、つまり、無明は行以外の原因によって生じない(または無明は行がないときは生じない)。もし、行以外の原因によって生ずることがあるならば、行が無くても無明が生ずることがあるからだ。そして、無明がなければ行も生じないは、今度は逆から、無明は行の生ずる原因の全てであり、行は無明以外の原因によって生じない。
「無明によって行があり、…無明の滅によって行の滅がある」この場合、行の原因は無明以外にもあり得る。無明は、行の原因の部分集合に過ぎないのだ。 無明の滅によって。。は、無明の滅によって滅する行もあるが、滅せない行もあるかもしれない。行が滅する原因の部分集合が無明の滅だと言っているに過ぎない。無明のないところ行がないとは言ってないからである。無明の滅によって(全ての)行の滅があるとは言ってない。しかし、「無明がなければ行も生じない」、と言ったときはより限定する印象が強い。
論理的に厳密に言えば、両方の言い方はいずれも、行と無明の原因結果関係が一対一であるかないか(他の原因を仮定するかしないか、佐倉様の書いた腹痛の例)によって解釈が変わる。ただ、行は無明の原因の全集合であるように感じられる印象が強いのは前者の方であって、特に後者の「無明によって行があり」の部分は部分集合と感じさせる印象が強い。なぜならば、一般に「ない」というとき、「少なくともここにはない」と言うことを意図せず、逆に「ある」ことは「少なくともここにはある」と言うことを意図とすることが一般的であるからだ。だから、「ある」ことは、ある実例一つを持って言えば足りるが、「ない」ことはあることがないことを一つ一つ証明しないといけないのだ。この観察を前提として再び解釈に戻る。
つまり、「行が無ければ無明が生じない」は、「行は無明の原因であり」、ともとれるし、「無明は行以外から生じない」、すなわち「行は無明の原因の全てであり、」とも解釈できる。しかし、「無明によって行があり」からは、「無明以外から行が生じない」と言う表現が生まれにくい(理由は、「ある」、と「ない」の一般的使われ方の差違に由ることは前述の通り)。
ここで、無明の原因(または前提)、行の原因(または前提)は必ず一つだけであるという仮定を導入して(ナーガルジュナがそうしたように)、原因結果(あるいは前提と存在)が一対一であると想定しても、やはりこの2表現を比べると前者の方が多くを含んでいる。前者は無明は行の結果であり且つ行は無明の結果である(あるいは無明は行を前提として存在し、且つ行は無明を前提として存在する)と言っているが、後者は無明が行の原因であることは言っているが、逆は言っていない(あるいは無明は行を前提として存在ているとはいっているが逆は言っていない)のである。佐倉様は対偶を使って逆を言っていると論証しているが、抽象化の過程で誤りがある。それを具体的に検証する。
問題点は「よって」を強制的に「があれば」に換えているところにあります。この誤謬故に、「行がなければ無明も生じず」(行は無明の原因または前提の全集合) と「無明によって行があり」 (無明は行の原因または前提の少なくとも部分集合)を論理的に同一などと言う過ちが帰結されます。
例えば、佐倉様が論理式で示したようにこう言うならば対偶になる。P、Qおよび論理式で表される内容は、Pでなければ、Qならば。。。と言う形だから、この式に会わせるには、原文が
「行でなければ無明でなく、無明でなければ行でない。」 「無明ならば行であり、…無明でなければ行でない。」でなくてはならない。この場合は
「行でなければ無明でなく」=「無明は行の部分集合」 「無明ならば行であり」=「無明は行の部分集合」となって矛盾はない(対偶だから当然である)。
しかし、この抽象化は、その過程で既に「よって」の意味を変えてしまっている。 「無明によって行があり」を正しく抽象化するならば
P=無明に「よる」こと Q=行があること ^P=無明に「よらない」こと ^Q=行がないこととなって、対偶は
「行がないならば、無明によらない」 ≒「行がないならば無明という原因はなかった」が帰結され、「行がなければ無明も生じない」とはなりません。この「によって」を「があるならば」とした時点、「無明によって」から「よって」を省いて「無明」とした時点で、「因果律として記述されたかもしれない表現を明確に対等の相対関係に置き換える」ことをしています。ですから、この対偶を用いた理屈によって「無明によって行があり」に「逆に行によって無明がある」と言う内容を包括していると帰結することは出来ないし、そこから「よって」は因果律でなく論理的相対関係を表しているとは結論できない。むしろ、「よって」を論理的相対関係を表す「があるとき」と解釈したときに初めて対偶「行がないとき無明も無し」が導かれ、従って相依関係が明示されるわけです。まとめると、
【私が理解した佐倉さんの理論(誤解があれば指摘してください)】
「「無明によって行があり」の対偶をとると「行がなければ無明も生じない」となり、このように初期仏教に相依関係が内在されている。さらに、ナーガルジュナがこのような相依を言うためには「よって」を因果関係でなく論理的相関関係として解釈していたとすべきである。また、縁起が順観と逆観のペアで語られているが、これをandで結んで解釈することでナーガルージュナは「よって」を論理的相関関係を示す言葉と解釈したと考えられる。」
【私が指摘する論理の飛躍】
「「無明によって行があり」の対偶が「行がなければ無明も生じない」となるためには、まず前提として「よって」を因果関係でなく論理的相関関係として捉えたときに初めて可能である。故に、対偶の理屈をもって初期仏教の中に相依関係が含有されていたとすることは出来ない。」
ですから、主張の趣旨と順番をこのように変えるべきではないでしょうか。
「縁起が順観と逆観のペアで語られているが、これをandで結んで解釈することでナーガルージュナは「よって」を論理的相関関係を示す言葉と解釈したと考えられる。その他このことを示す根拠も存在する。「よって」を因果関係でなく論理的相関関係として捉えるならば、対偶の論理によって初期仏教の「無明によって行があり」から「無明があれば行を生じ、また行があれば無明を生ず」と言う相依関係を導くことが出来る。ナーガルージュナは「よって」を因果関係でなく論理的相関関係と解釈することで、縁起の思想を大きく発展させた。」
指摘したように、「行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。」は、確かに行と無明が相互の原因結果関係(あるいは前提、存在)になっていることを語っていますが、「無明によって行があり、…無明の滅によって行の滅がある」は無明から行が生じる、無明が行の原因(または前提)になっていることのみ言っており逆は言ってない。
つまり、この例に関する限り、ナーガルジュナは明確に「相依関係」を語っているが、初期の縁起の概念は少なくとも一方的な因果関係にしか言及していない(相依関係は否定してはいないが、明言していない)ことになり、ナーガールジュナの縁起説は初期の縁起説を大きく拡張したことになります。これを、「全く違う」ものと表するかは別として、この意味に於いて引用されている中村元(『原始仏教の思想 下』)の意見は全く妥当であると言わざるを得ません。故に、「伝統的縁起思想の中に含意されていた相依関係を洞察」と記述する根拠を、此処に述べられている対偶の論理に求めることはできません。他にもそのこと(相依関係が伝統的縁起思想の中に含意されていたこと)を示唆する根拠があるのなら、納得できますが。
言語で記述された内容を抽象化した記号で表すのは大変有効な手段ですが、抽象化の仮定で誤るとその後の議論全てが間違ってしまいます。ですから、抽象化の過程でよくよく気をつけねばなりません。
また、「そうすると、縁起の順観部分「PならばQ」を「QでなければPでない」と、何食わぬ顔で書き換えて縁起関係を表現したナーガールジュナは、縁起を論理的関係として理解していたにちがいないと想定できます」とは結論できません。Qの原因がPのみであると仮定すればいいのです。「腹痛の原因が食べ過ぎ以外になく、かつ食べ過ぎが全て腹痛を起こす」場合、
B : もし食べ過ぎる(P)ならば、腹痛が起きる(Q)。 B’: もし腹痛が起きない(〜Q)ならば、食べ過ぎではない(〜P)。としても矛盾しません。因果関係か論理的関係か、というよりは、原因と結果が一対一対応しているかいないかに由ることです。この例を持っては、「ナーガールジュナは、縁起を論理的関係として理解していたにちがいないと想定」できません。
以上の考察は、「縁起」が「因果関係」でないとする論調とは何ら対立しません。ただ、先に挙げられた例に於いて、ナーガルジュナ以前に、「相依関係」が想定されていたとは結論づけられないこと、書き換えの例を持って「縁起を論理的関係として理解していた」とは結論できないことを主張するのみです。
この「相依」の概念は、「PならばQ」といった一般的なロジックと別な論理で組み立てられています。「PによってQ生ず」から記号論理の範疇で証明できないが、縁起を単なる因果律ではなく論理的相関関係と見ることで「QあるならばPもあり」との相依関係を観したのであり、そこが偉大だと思うのです。また、上記の思考と親和性が高いという理由で、私もナーガールジュナは、縁起を論理的関係として理解していたにちがいないと想像します。
結局言いたいのは、佐倉様の論旨に全面的に賛成するし、共感しますが、それを導く論理過程に飛躍があることが納得できないと言うことです。
「PならばQ」と「PからQが生じ」、とははっきり違います。この単純化は乱暴です。「PならばQである」とき、Pは少なくともQの部分集合になります。また、PかつQの部分(=P)の要素は、Qとしての属性を完全に持っています。つまり、PにふくまれるQの要素に着目して言えばQであってかつPである。しかし、「PからQが生じ」ではどうでしょう?少なくともPはQの「原因もしくは前提」の部分集合であって、PはQ足り得ません。QはPから生じる別のものであって、QはPではない。故に、この論議は、論理的に厳密ではない。わたしは、すべての縁起の言明を「PならばQ」の形に翻訳して分析していますが、「PならばQ」と「PからQが生じ」を一緒にしていません。ただ、「PならばQ」という表現における「P」や「Q」が何を指示しているかを、いちいち説明していないので、誤解されたのではないかと思います。
仏典における縁起の表現は
これがある故に、あれがある。これが生ずる故に、あれが生ずる。というふうになっています。よく見ていただければ分かると思いますが、この「これ」「あれ」の部分は「無明」とか「行」などの名辞を指し示すものですが、わたしの「PならばQ」における「P」や「Q」は名辞ではなく命題を指し示すものです。
これがない故に、あれがない。これが滅する故に、あれが滅する。(サンユッタ・ニカーヤ 12:37)
わたしが、縁起の論理的分析を始めたのは、中村元氏の影響なのですが、かれの縁起の論理的分析は、命題と命題の関係ではなく、工藤さんが述べられているように、むしろ名辞と名辞の関係として考察されています。例えば、
甲によって乙があり、また乙によって甲がある。という言い方をされています。(もしかしたら、工藤さんは、すでに中村氏の考察を読まれていたために、わたしの「P」と「Q」を、中村氏の「甲」と「乙」のようなものと、早合点されたのかもしれません。)
しかし、名辞を論理的分析の対象にするためには、「PならばQ」といった、命題論理学ではできません。「すべての(All)」および「すくなくとも一つの(Some)」という量を指定する記号を含む述語論理学が必要です。わたしの分析はあくまでも命題論理学によるものであり、わたしの「P」(や「Q」)は、もちろん、命題論理学におけるProposition(命題)のことです。
つまり、わたしは、「これがある」とか「これが生じる」という命題のなかの、名辞部分である「これ」とか「あれ」ではなく、その命題そのものを「P」とか「Q」というシンボルで表現しているわけです。「PからQが生じ」いった表現は命題論理学では無意味であり、したがって、わたしの考察には存在しません。
わたしが、どのようなステップで、上記のあげた仏典の縁起表現を分析したかといいますと、まず、混在している「〜がある、〜がない」という部分と「〜が生じる、〜が滅する」を別々のものとして分割したのです。
これがある故に、これがある。これがない故に、これがない。つぎに、前半の、「これがある」をP、「あれがある」をQとします。そうすると、「これがない」「あれがない」はそれぞれ、PとQの否定、すなわち「Pでない」と、「Qでない」、となります。
これが生ずる故に、これが生ずる。これが滅する故に、これが滅する。
P(これがある)故にQ(あれがある)、Pでない(これがない)故にQ(あれがない)でない。つぎに、後半の、「これが生ずる」をR、「あれが生じる」をSとします。すると、同じように、
R(これが生じる)故にS(あれが生じる)、Rでない(これが生じない)故にSでない(あれが生じない)。となります。 これは、「P故にQ、Pでない故にQでない」とまったく論理的には同じ式ですから、「これが生ずる故に、これが生ずる。これが滅する故に、これが滅する」も、「これがある故に、これがある。これがない故に、これがない」も、論理的にはまったく同じであって、どちらも「P故にQ、Pでない故にQでない」で表すことができることを示しています。これを、より一般的な(論理学の本などに書かれている)表現に書き換えれば、
PならばQ、PでなければQでない。となるわけです。PやQの中身が「〜がある」であろうが「〜が生じる」であろうが、また、「〜」が示すものがいかなる名辞であろうと、そんなことには関係なく、すべて、仏典の縁起の言葉は、「PならばQ、PでなければQでない。」に集約できます。これは、PとQは命題であって、名辞ではないからです。
まったく同じ要領で、ナーガールジュナの縁起言明を分析すると、かれの場合は、
QでなければPでない、PでなければQでない。となるわけです。すると、ナーガールジュナのやったことは、いわゆる順観といわれている前半部分「PならばQ」を「QでなければPでない」に言い換えただけ、ということになるわけです。ところが、「PならばQ」と「QでなければPでない」は論理的には同値なわけで、まったく、同じことを言っているわけです。それは、意味の拡大でもなければ、変換でもありません。単なる表現の言い換えに過ぎません。
ナーガールジュナはしばしば、縁起の教えゆえにブッダを「最大の説法者」であるとして、賛美しています。それゆえ、かれはかれの縁起がブッダの教えた(つまり仏典に残されている)縁起をそのまま引き継いでいると考えていたに違いありません。そうだとすると、かれは、「PならばQ」と「QでなければPでない」は論理的には同値であることを知っていたのでなければならないはずです。そうでなければ、「PならばQ」を「QでなければPでない」と書き換えながら、しかも、ブッダの教えた縁起をそのまま引き継いでいると考えることはできないはずだからです。
中村氏はこの二つの言明
PならばQ、PでなければQでない。(PからQへの一方向的関係?)の表面的な違いだけを見て、原始仏典の縁起を「一方向的関係」、ナーガールジュナの縁起を「双方向的関係」と考えられたわけです。そして、この違いの故に、ナーガールジュナは縁起の意味を拡大した、と主張されたのでした。QでなければPでない、PでなければQでない。(PとQは双方向的関係?)
なぜ、中村氏がそのように、「一方向的関係」と「双方向的関係」というふう解釈されたかといえば、上記でも述べましたように、縁起の言明を、命題と命題との論理的関係としてではなく、名辞と名辞の関係として考察されたからでしょう。そのために、「PならばQ」と「QでなければPでない」が論理的には同値であることに気がつかれなかったのだと思います。
「PならばQ」という言明には「QでなければPでない」という言明が含意されています。「QでなければPでない」という言明には「PならばQ」という言明が含意されています。ナーガールジュナはそのことを洞察していたと考えねばなりません。中村氏はそのことを洞察できなかったために、「PならばQ」を「QでなければPでない」と言い換えることによって、なにか新しい意味が付け加えられた、と考えられたのです。縁起の思想に関するナーガールジュナの業績は、意味の拡大でもなく、意味の変換でもなく、すでに内包(含意)されていたものを発見した、そのより深い洞察にある、というのがわたしの解釈です。