はじめまして、ホームページ拝見させていただきました。 まずはじめに佐倉様は理性を大事にするタイプの人間だと感じました。

私は禅宗系の寺の住職の子として生まれ、当然のように寺の後継ぎとして育てられた のですがその期待を裏切り大学生時分は学生運動に明け暮れ、今では仏教とは全く関 係のない職についています。一応免許を持っているので今でも寺を継いでくれと言わ れますがそのつもりは全くありません。

しかし最近は原始仏教の素晴らしさに目覚め始めています。 仏教も捨てたものではありませんね。

エッセイの更新を楽しみにしています。

わたしが、はじめて原始仏教(パーリ仏教)に触れたのは、メリーランド州に住んでいたころなのですが、そのころ、わたしはまだクリスチャンで、あちこちの教会を訪ね歩いていたのですが、仏教についても知りたくて、ある仏教の小さなお寺(ヴィハーラ)に飛び込んだのです。お寺といっても、ふつうの家を改造した素朴なものです。

そのお寺はスリランカから来られた二人の僧侶(そのうちのひとりはもと米国の大学の教授で、出家して僧侶になった人です)によって営まれていました。読経は現代語(英語)に訳したものでやります。そのうちの一つが、スッタニパータにもある「慈しみの経」でした。

一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。いかなる生き物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。(スッタニパータ 145〜147)
日本の読経も、「ハンニャ〜ハァ〜ラァ〜ミィタァ〜」などという変な中国語(?)でなく、現代の日本人にわかる言葉に翻訳してやってもらいたいものです。

中村元博士の書(英訳)に始めて出あったのもこのお寺の図書です。仏教のお寺は昔から学問の場でもあり、日本のお寺も、僧侶と参拝者と地域のための図書を備えてもらいたいものです。寺は、人間を苦から解放するための研究と思索と話し合いの場(シンクタンク)とならなければ、ブッダの伝統を受け継ぐ寺とは言えないと思います。