貴サイトの「空」に関する御見解、たいへん勉強になりました。感謝を申し上げます、ありがとうございました。佐倉サンが、ホンモノ志向で、ムダ嫌いで、意地でも偽物は読まないぞとばかり、その限定に、兵法(多分、クラウゼウィッツか孫子)を用いられているようで、親近感を覚えました。

 夢・幻の如き、この浮き世…自性…そんなのが有るハズは無い…と考えますが…現実として、我々は、コミュニケーションするために何万かの「語彙」を必要と致します。

 絶対者としたら…そんなのは「一語」、あるいは「無言」で足りるのですから、何に応じての数万語なのでしょう?それは『郷愁』を満たすツールではないでしょうか?

 精神世界は、新たな『次元』なのではないでしょうか?最近では、ヴァーチャル・リアリティーまで登場しました。0→1→2→3→数万語→無限の表現という可能性…で、「ことのは」の時代こそが霊長類の登場に因って、新たに切り開かれた『次元』に思え、疑似・次元…と言い表すのが言い得ているのかも。単なる渦巻き型の傷跡から、メータ指揮の「アンフィニッシュト」が響くように。

 代役に役処を処置させる…我々の辿り着けた、この回り道ですが…そこで迷っている。

 私の好きでない、漫才師の「ギャグ」ですが…例えば、「アヘアヘ」とかは、どこから、何を源に…この世に現れるのでしょうか?それに自性が無いとしたら。何を反映したのでしょうか?

 このような低俗な「例」で申し訳ないのですが、その出自は、明らかに『ヒト』という存在に始まります。人間だから…『和』の、短絡的な使途。夢のメカニズム同様、「ことのは」の自走。その条件・原因たるや、実に、天界に在るとは思えない不完全さ…この『次元』が、吹き溜まっている…ように私は考えます。単なる『錯覚』で済まされますか?フッと吹ッ消せるくらいの、他愛のない、つまらぬ出来事ですが、それが原因で、現実に、ギャランティーが移動したりする。物を動かすのですから、それなりの『自性』が想定でき、それには出自が有るハズ…しかも、どうやら途中から新登場したみたいな…。

 それとも、他の解釈、思い当たりますか?可能性、それ自体の有する無限という《自性》に還元してしまえば簡単ですが…それでは納得できません。ある意味で、佐倉サンの大嫌いな同語反復を含みます。

 最初のバカップルが知恵の木の実を盗んで、食べた…56年前は、神の《火》を盗んだ悪党が、多くの…女(その一人は、私の母)・子供・老人を、実験対象と考えて、実際に使った。

 最終の次元は、互いに打ち消しあう要素を含んでいました。その代表例が、奪い合い秩序の勝者・敗者です。

 私は、アウンという絶対者を措定します。それの現し世の姿として、アウム…陰・陽に相当するアウ・ウム…そこからカタ・モノ・コトが、さらに多様に就りゆくための、アイ・ナル・イナという要素が、何万語もの量と、その組み合わせに因る可能性が、より脆弱で、ある意味でナンセンスも孕みながら、実相から遠のいている…それが末法、この迷いの時代と思います。

 あの「アヘアヘ」にも、因・縁は有るでしょう…が、人間界で自己完結しているのでは?としたら、『自性』が、何処かで偶成したと考えるのが妥当では?

 それは、前次元に包み摂れるのです。マクロ方向に行けば量的に一つ、ミクロ方向に行けば質的に一つ…各々、一元に就りゆく…という「表現」で、全ての《モノ》に、言い聞かされた処世訓のような《自性》を認めます。(それのみです…後は因縁論、条件・原因次第) これを…龍樹と違うから「間違っている」と言われても、そういう教条主義に従えません。 龍樹だって、思い巡らせるうちに、そういうコトにも思い至ったでしょう…けれど、自ずと限界が在ったのではないでしょうか?方便として、切り捨てた…かも。何故なら、それでも私は、龍樹(を紹介された佐倉サンの論文)を理解できるのですから,朧気なりに。

 もちろん、アビダルマ論師タチの合理主義的な見解は、ミクロ・マクロの両極でズレるのですから、理解に致せても、それを受け容れません。無機的と有機的…その境界の、コッチ側の「コトノハ」次元は、まっこと、奇妙キテレツだと思います。そこに、科学の限界を見出します。

 蛇足として…優秀な子孫を遺そうと、美女タチと睦んだ…スケベ心を含めて、龍樹に対して『好感』を持っています。(少し羨ましい?)

 最後に…私は、私の内なる何万かの「ガラクタ」を、やがて大掃除するコトになるでしょう…が、それを急いでいません。

Entropy_Zero

言われていることが難しくて、よく理解できません。