佐倉様、はじめまして。
佐倉さんのhpがあったことを感謝しているものです。 私は釈迦という方が、こんなに素晴らしい方だったとは今の今まで知りませんでした。 今まで仏教の事は、地獄絵巻、お墓、仏壇、お経、断食、お布施、、、。 そんなふうに、思い付く事はこんな事くらいしかなかったのです。(愚かな、、) 今、佐倉さんのhpで、釈迦の言葉を聞いては涙して、という感動につつまれています。 そして、誤解も解けたし(断食や地獄)、原始仏教が大好きになりました!何よりも、 釈迦の生身の言葉が一番解りやすいし、優しい気持ちになれるような気がします。 本当の仏教と言うものを知れるきっかけを作って下さった事を感謝しています。 本当にありがとうございます、佐倉さん!(=^_^=)
それで、完璧初心者の素朴な質問なのですが、是非教えて下さい! 最近のお坊さんは、肉も魚も食べる方がいらっしゃるのは何故でしょうか?? 今の現代では、肉を食べなくても、他に食べる物があるのに、と思います。 釈迦は、生きとし生ける全てのものが幸福であれといわれたと思います。 そう願っていたというのは、間違いではないと思います。 でも、昔のインドは、貧しかったと思います。 だからこそ、釈迦は、その事について語らなかったのかなぁ、と勝手に解釈している んですが、、。そしてそこまで考えると釈迦が、食していたのかと言う事も 気になってきます。
「どうしても食べなければいけない時は感謝して食べなさい」と言う事なのでしょう か。では、今、食べ物がありふれる日本では、殺す必要がないのに殺し、食してい我々 は、欲にとりつかれているように思えます。 私は「生きとし生けるものの幸福」を語った説教にいたく感動してしまったので とても気になる部分であります。 佐倉さん、釈迦は、そして仏教は、食に関してどういう見解を持っているのでしょう か???私はこの問題に、早速、いきずまってしまいました。(‾_‾;) どうか、聞かせて下さいますよう、お願いします。
by AKA
1.不殺生戒
釈迦は、そして仏教は、食に関してどういう見解を持っているのでしょう か???私はこの問題に、早速、いきずまってしまいました。(‾_‾;)「無傷害(アヒンサー)を楽しむ」という言葉が原始仏典にはしばしば出てきます。生きとし生けるものを傷つけない生き方への仏教徒の誇りのようなものが感じられる言葉です。仏教の戒律では常に「殺すべからず」が第一に挙げられます。
したがって、インドにおける他の多くの宗教と同じように、肉食はこれを避けました。そのため、たとえば、仏教徒が殺生に直接関る仕事は避けるように教えています。
猟師よ、耕作、商業、金貨、収納業、これらによって妻を養え。再び悪をなしてはならぬ。・・・この五つの商売は在俗信者のなしてはならないものである。その五つとは何であるか。武器の売買、生き物の売買、肉の売買、酒の売買、毒の売買である。
(中村元訳、『仏典の言葉』78〜79頁より)
しかし、他の宗教と違って、例えば他人の家の食事に招待されたり、布施で与えられたものは、それが何であっても(たとえ肉食でも)喜んで受け入れるべきであると教えられており、自分たちの事情でそれを拒否することは、「極端」な態度であるとして退けられたようです。
それが、ジャイナ教などと異なる原始仏教の特殊な食の思想ですが、仏教徒たちはそれを、快楽主義と禁欲主義のどちらも「極端である」と否定したブッダの「中道」の立場で、解釈したのです。そこに、断食して死に至ることを理想としたジャイナ教などと異なる原始仏教の実践論があると言えるかもしれません。
2.罪業を作らずにいることはできない
[隣家の妻は]「わたしの夫は、この土地の百姓でございました。父母と夫婦、それに三人の子どもとで、わずかの田を作り、暮らしを立てていましたが、これではとても生きてはいかれません。悪いこととは知りながら、夜になると鳥網や鳥モチをしかけて鳥を捕り、これを往来の人に売っていました。また、川へ行っては鮎を釣ったりして、生活の足しにしていました。暮らしのためとはいえ、殺生を積み重ねましたので、その罪業が須弥山のように大きくなっていることでございましょう。夫は病の床に就いてからも、そのことばかりを嘆き悲しんで、わしの死後には、なにとぞ名僧知識のご回向にあずかれるようにしてほしい、それだけが願いだと申しておりました。まことに奇しき因縁でおいでくださった和尚さま、どうか亡き夫のためにありがたい一句をお授け下さいませ」と、涙ながらに願うのであった。一休も、同情して、「人はすべて、どのような暮らしをしていようと、この世に生きている限り、罪業を作らずにいることはできないものだ。しかし、そなたの夫のように、罪業の深さをつきつめて、そこまで恐ろしがっているのであれば、その一念で、すでに罪業は消えたも同然だ。しかし、それでも心もとないというのであれば、安心なさい、わしが極楽往生の血脈を授けてあげる」と、一筆さらさらと書いて、折りたたみ、「これを亡き夫の手に握らせて葬るがよい」と、その妻に渡して立ち去った。
妻はおしいただいて、言われたままに亡夫の手に握らせておいたが、しばらくして、「あれは浄土宗の五重相伝といったような、有り難い文書であるに違いない。ちょっと拝見させていただきたい」と思い、開けてみると、
つくりおく 罪が須弥ほどあるならば 閻魔の帳に つけ所なしと、一首の狂歌が書いてあった。(安藤英男、『一休:逸話でつづる生涯』、すずき出版、121〜123ページ)
3.殺生否定と殺生肯定と中道
生きているものといえば、かならずしも動物だけに限らず、植物にも生命はあるわけです。したがって、殺生否定の思想を論理的に極限にまで突き詰めれば、植物か動物を食べなければ生きていけないすべての動物や人間は死ななければならないことになり、逆に、最大の殺生肯定に行き着くことになるでしょう。不殺生戒を極限にまで突き詰めようとするジャイナ教が、結局、断食による死を理想とすることになったように。
殺生を無制限に許す<快楽主義>でもなく、不殺生戒を極限にまで突き詰めようとする<禁欲主義>でもない、そのどちらでもない<中道>を説く -- と仏教は語ります。