佐倉様

たいへんご無沙汰しております。

死後の世界観から」が、私のせいで(7)でストップしてしまっております。 佐倉さんのご質問に対して、早く返信しなければという思いはあったのですが、忙しさにかまけてしまい、気がついたら2年近くの歳月が経っておりました。より良く生きることを標榜しながら、この体たらく,まことにお恥ずかしいかぎりであり、心よりお詫び申し上げます。

2年間、何の成長もしていないことが露呈してしまいますが、回答を添付させていただきました。

まだお気持ちがおありであれば、今後とも宜しくお願い致します。

笠原 祥

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[(1)実存的要請からの事実判断]

わたしは、事実問題と実存的要請は別々の次元のことがら(ミスマッチ)であって、実存的要請から事実問題への論理的な道筋はないという批判を繰り返し述べてきました。
私も繰り返し述べているように、形而上学的問題は証明不可ですし、叶えられるはずのない実存的要請など無意味だと思っております。

わたしとしては、「死後生き残らないとしたら、人生を前向きに生きていけない」という考え(前提)から、笠原さんは、どのようにして「だから、霊魂がある(可能性は高い)」という考え(結論)になったのか、その過程を明確にしていただくだけでよいのです。わたしはその二つの間にうめることのできないギャップ(ミスマッチ)を見いだしているからです。
3回目の投稿から、その過程や理由についてかなり詳細に述べてきたつもりであり、それ以上のものを要求されても、何もありません。

何回もお尋ねしているのですが、お答えいただけないようです。 めげずに、もう一度お尋ねしますが、 私の考え方によって、日常生活レベルにおいて、私に具体的にどのような(体重を体温計で量るようなレベルの)問題がおこっているのでしょうか?

先の問題に答えていただいて、わたしの理解(次元が違う・ミスマッチ・論理的飛躍)が間違っているのかどうかが、はっきりしなければ、このご質問にわたしは答えることはできません。なぜなら、もし、笠原さんがおっしゃるように、わたしの笠原さんの考え方に関する理解が見当外れだとすると、笠原さんの考え方が日常生活レベルにおいてどのような問題を起こすかなどという、次の段階の質問(笠原さんの考え方を理解した上で初めて答えることのできる質問)に、わたしが意見を述べることなどできないからです。
代わりに、以下の例でお答えします。
今日を前向きに生きることできるようにといった(心の深奥から湧き上がってくる思いを)理由に、「明日の休日は晴天である(可能性が高い)」と予報するのは、根本的な過ちを犯しているとわたしには思われます。
この例えは、私の考え方とかなり異なります。 私流に表現すれば、「自分が明日も生きているのか、それとも死んでいるのかはわかりませんが、生きていることを前提に(佐倉さんの言葉を借りれば、信じて)今を生きています」ということになります。今の生き方を決める上で、明日は死んでいるかそれとも生きているかを予測することは、私にとって非常に大切なことです。

佐倉さんは「まさに、体重を量るのに体温計をもってするような、根本的な取り違えの過ちだと言わねばならないでしょう」と断言されておられますが、日常生活においてはあり得ない過ちです。あり得ないと言うことは、具体的な問題も生じないと私は理解していますが、佐倉さんはどんな問題が発生していると考えておられるのでしょうか?また、明日も生きていることを前提に今を生きることにどのような問題があるのでしょうか?


(2)人間存在の価値・人間存在の意味

いろいろとご説明戴きましたが、人生に意味が見出せないのですから、私にとっては同じことです(無意味になることも有意味になることもできないのではなく、同じように無意味なのです)。
「全てが無くなった時点において(8月14日)」、誰が人生に意味を見いださないのですか。誰にとって人生が無意味なのですか?
もちろん、私です。佐倉さんは、私という存在が無くなった時点で、私の人生の意味を云々してもそれこそ無意味だとおっしゃりたいのだと思いますが・・・以前議論したような記憶があります。


(3)関係性と存在

父と母との関係、精子と卵子の関係、体とその構成要素との関係、食べる生物と食べられる物質との関係、物質と物質との関係、等々、一人の人間の存在は、このような複雑で無数の関係に依存して、始めて「生じる」ものです。「最初にあるのは存在であり」そのあとに関係性が生じる、というのは誤解だと思います。
佐倉さんのおっしゃる「一人の人間の存在は、このような複雑で無数の関係に依存して、始めて生じるもの」というのも正しくないように思います。存在と関係性は切り離すことの出来ないものですが、夫婦関係の生じるプロセスなどを考えてみても、先ず男女それぞれの個体が存在し、それが縁にふれて恋人という関係になり、やがて結婚して初めて夫婦という関係性が生じるのではないでしょうか?


1.「明日」と「死後」の違い

私流に表現すれば、「自分が明日も生きているのか、それとも死んでいるのかはわかりませんが、生きていることを前提に(佐倉さんの言葉を借りれば、信じて)今を生きています」ということになります。今の生き方を決める上で、明日は死んでいるかそれとも生きているかを予測することは、私にとって非常に大切なことです。
一日が過ぎて次の日を迎える。わたしたちは、だれでも、これを、毎年毎年、一年365日繰り返しています。今日は昨日の「明日」であって、わたしたちは、毎日、その「明日」を経験しています。すなわち、「明日」はわたしたちの経験知であり、その経験知は積み上げられていくものです。だから、「明日」の天気を予測することは、地球環境や過去の経験等々を調べることによって予測可能であり、またその予測の結果を知ることもできます。

しかし、一生が過ぎて次の一生を迎える、などということは、わたしたちの経験知ではありません。前世についても次世についてもわたしたちはいかなる知識も持ちません。今の生についてかつてどんな予測をしたのか知る由もありませんから、はたして、予測が正しかったかどうかを決定することもできません。

すなわち、「明日」と違って「来世」は予測不可能であり、その予測結果も決定不可能です。死後の世界も、生前の世界も、わたしたちの認識や経験や実験の届かない領域であって、それは、知識(予測)の領域ではなく、思い込み(信仰)の領域だからです。


2.実存的要請によって、事実判断(予測)をする

今の生き方を決める上で、明日は死んでいるかそれとも生きているかを予測することは、私にとって非常に大切なことです。

笠原さんが「死後も生き残りたい、そういう欲望を持っている」というのならわかります。それは、死後の世界がどうなっているかという事実に関して語るものではなく、笠原さんご自身の欲望について語るものだからです。また、笠原さんが「死後も生き残るかどうか知らないけれど、そうだと信じている」というのならわかります。それは、死後の世界がどうなっているかという事実に関して語るものではなく、笠原さんご自身の単なる思い込み(信仰)を語るものだからです。

ところが、笠原さんは、「死後も生き残る」というご自身の判断は、願望や信仰心のような個人の心の中の事柄ではなく、あくまでも、死後の世界がどうなっているかという、わたしたちの住んでいる世界の事実についての「予測」だと、主張されるわけです。そこが、ご自分でもおっしゃられているように、信仰者や願望者と違う笠原さんの特徴なわけです。とすれば、その主張には、信仰者や願望者とちがって、主観的な願望や勝手な思い込みではなく、なんらかの客観的な根拠がなければなりません。

そして、「死後人間は魂として永遠に生き残る」という「予測」をするその理由として、いつものように、「今の生き方を決める上で・・・大切」だから、という実存的(人生論的)理由をあげられています。

つまり、「自分の人生を良くいきたい」という個人的な欲望を理由に、死後の世界がどうなっているかという客観的な事実に関して、人間は魂として死後も生きるんだ、と「予測」をされているわけです。

ところが、人間の欲望は事実がどうであるかを予測する根拠としては頼りないものです。「明日外出したい」という欲望が、明日どんな天候になるかを予測するのに何の役にも立たないように。それとまったく同じように、笠原さんが、「自分の人生を良くいきたい」とどんなに真摯に願っても、その思いは、死後笠原さんが実際生き残るかどうかという事実を「予測」するためには何の役にも立たないものです。それが、認識的根拠ではなく、実存的理由にすぎないからです。認識的根拠がなければ、これは「予測」などと呼べるものではなく、単なる勝手な思い込みに過ぎません。


3.人間存在の価値・人間存在の意味

もちろん、私です。
「全てが無くなった時点において」は、「私」も無くなっているわけですから、「もちろん、私です」というのは単純な論理的誤謬(矛盾)です。


4.関係性

夫婦関係の生じるプロセスなどを考えてみても、先ず男女それぞれの個体が存在し、それが縁にふれて恋人という関係になり、やがて結婚して初めて夫婦という関係性が生じるのではないでしょうか?
それはもちろんそうです。しかし、それはいわば片目で現実を見ているのであって、もう一つの目を開いて現実を見れば、その「男女それぞれの個体」そのものが関係であることに気づくでしょう。彼(女)は「親であるAとBの関係によって存在として現れるようになったもの」であり、その個体は「常に入れ替わっている、いろいろな原子や分子の集まりによって構成された細胞、臓器、骨格、脳、神経、筋肉などの相互関係そのもののこと」であり、「常に外部の環境(とくに酸素や水分や食べ物などの物質や社会)との密接な関りを持つことによってはじめてその存在を可能としているもの」です。

この「個体」はそれらの関係なくして一瞬たりとも存在することもできないものです。言い換えれば、関係が個体を存在させている、とも言えるでしょう。個体から、一切の関係を取り除いてしまえば、何も残りません。車が、それを構成している部品をばらばらにしてしまえば、車と言えるものは、どこにも残らないようなものです。ものに実体[自性]がない(空)とは、そういうことです。

部分を寄せ合わせて合わすとき
これよりたとえば車という
名辞の生ずるごとくにて
組成要因のあるところ
ここにはじめて生物という
世上の通念が生じます。

(「ミリンダ王の問い」、『バラモン教典・原始仏典』、長尾雅人編集、544〜545頁)