佐倉様
はじめまして、木原と申します。エッセイおよび来訪者とのやりとりを非常に興味深く読ませて頂いています。
以前、日本人の宗教意識に関して、考えたことを書いたことがあります。
宗教の核心には「物語」がある筈だと思う。例えば、ユダヤ教やキリスト教に共通するものとしての「創世神話」。天理教の「泥海古記(元始まりの話)」。宗教というものは、伝えられた物語のリアリティーを受け入れるところに成立するものだと思うのだ。ユダヤ教の選民思想は、旧約聖書に記された物語(神話・伝説・歴史)を信じるところから生まれたものだろう。キリスト教の教義にしても、その中心にあるのは、イエスが語った譬話であり、それ以上に、十字架にかかって死んだイエスが蘇ったという、ある人にとっては眉唾な、別の人にとっては事実として疑いようのない、物語だろう。仏教に関する私の疑問は、結構、良い所を衝いていたのだと、今にして思います。原始仏教に関して書かれた佐倉さんのエッセイを私が誤読しているのでなければ、本来、仏教は、その他の宗教に一般的に見られるような「物語」を徹底的に排除したものだった、という事です。だから、仏教というものが僕にはよく判らない。あれは学問じゃないのか。その中心にどういう物語があるのか、ちょっと見当が付かないのである。「自分はクリスチャンでもなく天理教徒でもなく創価学会員でもなくオウム信徒でもなく、ごく普通の日本人だ」と思っている人が「まあ強いて言えば仏教徒かな」と言うその時、あるいは、数珠を手に葬儀や仏事に参列してお香を焚き、場合によっては般若心経を諳(そら)んじさえするその時、彼(彼女)はどういう物語を信じているのだろうか。
そして、一般的な宗教において「神秘体験」もしくは「奇跡」が非常に重要な要素となっていることも、それらが普通では証明できない「物語」の真実性を証拠づけるための仕組として不可欠であるからだ、と考えれば、理解しやすいように思います。
さらに論を進めるなら、そういう証拠を得るための手段、神秘的な体験や奇跡を招来するための方法として、「祈り」、「秘儀」、「師のカリスマ性」等、宗教を宗教らしくしている諸要素が必要なものになるのだ、と。
このような理解で良いでしょうか。もし、佐倉さんの意図される所を誤解しているのであれば、教えてください。
さて、仏教(釈迦の仏教、原始仏教)は、それでも、まだ、宗教であると言えるのでしょうか。いや、宗教であっても宗教でなくても、どっちでも良いのですが、哲学や倫理学などの学問とは違う、という面があるのでしょうか。あるいは、このように尋ねた方が良いかも知れません。仏教(釈迦の仏教)においては、「祈り」など、一般的に宗教的なものの代表として考えられているようなものは、いったい、どういうものとして位置付けられるのでしょうか。
仏教(釈迦の仏教)においては、「祈り」など、一般的に宗教的なものの代表として考えられているようなものは、いったい、どういうものとして位置付けられるのでしょうか。ブッダは祈祷や神々の力への依存を否定しています。しかし、祈祷や神々への信仰が「仏教」の中にないわけではありません。わたしたちの知っている「仏教」は単にブッダの教えではなく、インドやチベットや中国や日本などそれぞれの土地で、人々はそれぞれの土着の宗教を混在させているからです。
しかし、ブッダ自身・初期仏教は信仰宗教を否定した、というのがわたしの研究の結論です。
[ブッダは言った。]ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。ダライ・ラマも「仏教は宗教ではない」と語られています。ここでいう「宗教」とは、もちろん、人間の救いを神のような神秘的な力に依頼する信仰宗教のことを指します。(スッタニパータ 1146、中村元訳)