まず「空」についてを読み、それから来訪者の声とそれに対する対応を読みまし た。 最後に「幸福のお勧め」に対する返事として書かれた文を読みました。

一つお聞きしたいのは、「真理」と、それを求めずにはいられない「動機」に付 いてです。 「真理」とは一体何なのでしょう? そしてなぜ「正しい」事を知らないと嫌なのでしょう? 間違っていると何がいけないのでしょうか? 何か困る事があるのでしょうか? 或いは嬉しい事があるのでしょうか?

論理は、実際は分かれていない物を「仮に」基準を設けて分類し、「対象」につ いて 何か言う訳ですが、論理を絶対的なものにする「仮の」ではない「絶対的な」基 準は 在るのでしょうか?

論理的には視点或いは前提を変える事によって何事も「真」とも「偽」とも言え るように 思いますが、この見方をすると、幸福と同様に真理も求めるのが馬鹿馬鹿しくな り、おまけ として現れたりする可能性さえあるかもしれない訳です。

よくわからない「真理」を追究するのは、「幸福」を追求するのと同じ不毛な努 力であると 思われますがいかがでしょうか?

もし、「真理」が「幸福」に先行するのであれば、「何か」が「真理」に先行す る可能性も あり得る訳で、一体突き詰めていくと何処に行き着くのでしょうか? 「真理」と言う言葉で行き付いたつもりになっても騙されず、「真理」の個人的 な定義、 概念、範囲などを検討し、「知りもしない他の言葉」によらず「独立して確かな 何か」が いったい何処にあるのでしょうか?

考察する時、観察する時、何かを「対象」として捉えると、そこで「対象」は 「視点」に 依存しており、「独立して確かな何か」とは言えないと思います。 そこで「視点」に目を向け、検討しようとすると、その時点でその「視点」は 「対象化」 され、「それはちがう」と言う事になります。 「主体」「客体」という表現を持ち込めば、「客体」は「対象」の総称ともいえ るので 「主体」と呼ばれている方に目を向けなければならないと思います。 ところが「主体」に目を向け、何かが現れるたびに「対象」として「ちがう」と 切り捨ててい ると、私にはよくわからなくなってしまうのです。

あなたの誤魔化しをゆるさず徹底して根本まで掘り下げる真摯な姿勢でこの問題 について 教えていただける事を期待しております。

これらの沢山のご質問はみんな、「知る」とは何か、という哲学の根本問題にかかわるものですが、それにもかかわらず、わたしたちは日常生活のなかで、知っているとか知らないとか、正しいとか間違っているとか、なんの躊躇もなく判断しています。実は、clomaさんと同じようなご質問を他の方からも受けており、わたしは、「真理の基盤」(仮名)とでも題して、この問題に関する自分の考えをまとめてみようかなと考えています。

できたら2週間ぐらいでまとめたいのですが、予定どうりに終わるかどうかわかりません。

おたより、ありがとうございました。



再び clomaさんより

1997年7月24日

さっそくのお返事ありがとうございます。

私は、この問題から逃れる事ができず、これが解消されない限り 日々の日常的な行動の基盤すらなく、落ち着きません。

現在、論理的な詰めと平行して、「知る」という事、あるいはデカルトが 「思う故に我在り。」と余りに乱暴に片づけてしまった「我」「在り」「思う」 などの実践的検証を試みております。

思うに「我」とか「在る」を「知っている」かのような実感が するにもかかわらず、実際「知ろう」とするとまったくわからない 根本的な不安感、不快感があるようです。

2週間で終わる問題では無いようにも思いますが、 途中経過でも良いので時々教えていただけると助かります。


作者よりclomaさんへ

1997年8月21日

ご質問に関連する事柄について、自分の考えを、「真理、論理、および真理の根拠」として、一応まとめてみましたが、結局、それでも、「途中経過」にすぎません。もし時間がありましたら、拙論をご覧下さい。

論理的には視点或いは前提を変える事によって何事も「真」とも「偽」とも言え るように思いますが、この見方をすると、幸福と同様に真理も求めるのが馬鹿馬鹿しくな り、おまけとして現れたりする可能性さえあるかもしれない訳です。 よくわからない「真理」を追究するのは、「幸福」を追求するのと同じ不毛な努 力であると思われますがいかがでしょうか?
真理は確かに条件的です。したがって、「視点或いは前提を変える事によって何事も「真」とも「偽」とも言え る」という事態も成立します。しかしながら、条件的であるということは、結論が前提や言語規則に拘束されていることを意味します。たとえば、「y = 2x + 1」という数式において、x の値(前提)を変えれば、y の値(結論)も変わります。しかし、その変わり方には厳密な法則性があります。つまり、x の値も yの値も無限にありますが、y と x の関係は一定です。この例でいえば、この数式はグラフで描くと一直線になります。したがって、yの値はその直線上に厳密に限定されていて、何でもよい(「馬鹿馬鹿しい」)わけではないのです。論理的推論(「xならばy」)についても同じことが言えます。

幸福についていえば、それとは対照的に、同じ条件のもとで、ひとは幸福であるとも、不幸であるとも、言えるとおもいます。言い換えれば、人を幸福にする条件は、同時に人を不幸にする条件でもあります。

わたくしはこのように聞いた。あるとき尊師(ブッダ)は、サーヴァッティー市で、ジェータ林の園にとどまっておられた。そのとき、悪魔・悪しき者は尊師に近づいた。近づいてから、尊師のもとで、この詩句を唱えた。
子ある者は子について喜び、また牛のある者は牛についてよろこぶ。
人間の喜びは、執着する依りどころによって起こる。
執着する依りどころのない人は、実に、喜ぶことがない。
(尊師いわく、)
子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。
人間の憂いは、執着する依りどころによって起こる。
執着する依りどころのない人は、憂うることがない。
そこで、悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。

『サンユッタ・ニカーヤ経典』(中村元訳)より

さて、おたよりのなかで、ひとつだけ、ぜひお聞きしたいことがありました。それは、

論理は、実際は分かれていない物を「仮に」基準を設けて分類し、「対象」について何か言う訳ですが…。
といわれていることについてなのですが、物が「実際は分かれていない」ということを、どのようにして知られたのでしょうか。似たような主張が、とくに日本の臨済系統の禅に影響された思想家(鈴木大拙や西田幾太郎とその後継者たち)によって語られているのを、わたしもよく、読み聞きしていますが、わたしには、どうもよく理解できません。もしよろしかったら、ぜひ、詳しい説明をしていただけたら助かります。

おたよりありがとうございました。



再び clomaさんより

97年8月24日

頭の上ではそうかもしれませんが、それらを「追求する」欲求のようなものがある限り不毛であろうが何であろうがなかなか止まらないのです。佐倉さんは「真理」も「幸福」も不毛と頭でわかる何もかも「追求」せずに生きられるでしょうか?

幸福についていえば、それとは対照的に、同じ条件のもとで、ひとは幸福であるとも、不幸であるとも、言えるとおもいます。言い換えれば、人を幸福にする条件は、同時に人を不幸にする条件でもあります。
これも頭ではそうでも実際むかつく事もあれば嬉しい事もある訳で我々がそれらの条件による幸福や不幸に翻弄される限り、そうゆう条件はその当事者にとって言わば「絶対基準」でさえあるように思えます。従って、人はこれらの嫌な絶対基準に変わるものと、それへの移行の具体的な手段を求めるのだと思うのです。

釈迦の例で言えば、宮廷での贅沢にも、修行者としての大成にもかかわらず最後のさとりと呼ばれる事件まで、これは解決されなかった問題なのだと言えるかもしれません。

「分かれていない」ですが、私は西田を読んだ事がありませんし、なぜか余り興味がありません。鈴木大拙は禅に影響を受けたというより禅の坊さんだったと思います。これは「分かれている」ことに必要な「境界」の概念を実際に具体的に見つけようとすると不明確で在る事によります。

たとえば「人間」という「全体の中の一部」を取り出して、「人間」と「人間以外」との「境界」を調べてみます。すると、「皮膚」という「境界」があるようでいて、実はいろいろな物質が行き来しており、厳密な境界を定める事が不可能である事が明らかとなります。同様に、確かに思える「石ころ」を取り出してその境界を調べると、わずかにではあっても、分子レベル、粒子レベルで崩壊し続けていたり、熱などのエネルギー交換が有ったりして、厳密にどこからが「石ころ」で、どこから石で無くなるのか定かではありません。こうしてみると、厳密な境界などがどこにも見当たらず、「何も分かれてなどいない」という事が少なくとも頭の中ではハッキリします。また、「分かれている」という言わば妄想が減って来ると、体験的にも分かれていない事が感じられるようでもありますが、「分かれている」という妄想は簡単には無くなったりしないようです。

多分、今と過去と未来という分類も本来なくて、現在があるだけという感じ方にもなれるであろう事が推測されますし、そういう体験談も聞いたことがあります。ただし人間の生き方としては珍しいものであると同時に、そうなるまでにはかなり苦しいようでもあります。

西田という人は佐倉さんの引用から見たりする限りでは、まだ、「ある」ということを「ない」と分けていたのかもしれないと感じますが、彼の言う「純粋体験」は「知球モデル」を純粋に実践しようともがくと一時的に経験される事がある状態のように思えます。

「わかれていない」事について、「わかって」いただけましたでしょうか?「わかれていない」と「わからない」事が多くなるようでもあります。


再び作者よりclomaさんへ

1997年9月1日

(1)幸福論について

幸不幸というものの特殊な性質は、わたしたちは誰でも不幸を嫌い幸福を望むにもかかわらず、状況がなに一つ変わらなくても、つまり、どんな状況にあっても、ひとは、自分を「幸福である」とも「不幸である」とも思うことができる、という事実にあります。しかし、わたしは幸福について少し喋りすぎたようです。わたしの幸福論は、「真理を求めるより幸福を求めたらどうですか」という、ある読者の方からの提案にお応えしたものにすぎません。別に他人に勧めるものではありません。読者の皆さんには、漫画か週刊誌でも読むつもりで、興味本位に読みながしていただけたら、とおもうだけです。

(2)「分かれていない物」について

境界線がはっきりひけない、というご説明は、とてもわかりやすいものでした。わたしはてっきり禅書などにみられる「主客未分離」の状態のことを語られているのだと、早合点していました。全然別のことを言われていたのですね。いわゆる京都学派と呼ばれている人たち(西田幾太郎や鈴木大拙およびその後継者たち)によって主張されている「主客未分離」の思想の背後には、実は、汎神論的形而上学の思想があることに気づいて以来、わたしは、この学派の主張に少々疑い深くなっていますので、つい追求してみたくなったのです。

しかし、禅はさておいても、もし「分かれていない」という意味が、単に境界線がはっきりひけないことを意味するにすぎないのでしたら、「分かれていない」などという誤解を受けやすい表現を使わないで、端的に「境界線がはっきりしない」と言われたほうがわかりやすいのではないでしょうか。境界線がはっきりひけないことは必ずしも「分けられない」ことを意味しないからです。たとえば、わたしたちは「海」と「川」を別々のものと考えます。しかも、「海」と「川」が交わるところでは、何処までが川で、何処までが海であるか、という境界線を引けないこともよく承知しています。それにもかかわらず、わたしたちは、大洋のど真ん中を「川」と間違えることはないし、山の中の川の上流を「海」と間違えることもありません。境界線がはっきりひけないことは必ずしも「分けられない」ことを意味しないからです。

さらにまた、「いろいろな物質が行き来して」とか「分子レベル、粒子レベルで崩壊」とか「熱などのエネルギー交換」などという観察も、物を分けているからこそ可能なわけであって、あちらとこちらにものが分けられていなかったら「行く」とか「来る」とかという現象はありえず、崩壊する粒子をそれ以外のものと分けていなければ、崩壊という現象もありえないはずです。エネルギー交換に関しても同じことが言えるでしょう。

そうすると、わたしには、なぜ、 cloma さんが、「物は分かれていない」という表現にこだわっておられるのか、理解できません。実際、わたしたちは、ものを区別せずには生きて行くことはできません。石ころをパンと間違えて食べるわけには生きません。書物は食べず、食物は読みません。毒は避け、栄養食はこれを受け入れます。よく生きるとはよく分けることであるとさえ思えます。

(3)「真理、論理、および真理の根拠

に対するご批判は、わたしの応答とともに本論に追加いたしましたので、そちらをご覧下さい。