佐倉さん、こんにちわ
仏教のページを読みました。難しい事をわかりやすく明瞭にまとめてあるので僕のようなものでも結構読み進んでいけました。ただ専門用語(これは来訪者の声に多かったですが)やあるいは日常使われる言葉の「真理」とか「真実」(余り使いませんけど)なんて言葉でも改めて使われている意味を考えなければならないのが少し苦痛でした。真理なんて恋に苦しむ者にとって意味がないですから。仏陀が死後があろうがなかろうが苦しいものは苦しいじゃないかと言ったのは当たり前だと思います。「初心」という何にもとらわれない立場で素直に物事を見つめる事が仏教のもっとも中心的な思想であろうとなかろうと恋する仏教徒は苦しみます。物事を素直に見つめる事は、物事を素直に見つめる事以外に何を求めているのでしょうか。「真理」でしょうか。
夏目漱石の、「自分以外のものを信ずるほど、はかないことはない、しかし、その自分がいちばん頼りにならない、とわかったとき、人はどうすればよいか。」これが大問題になるのはやっぱり「真理」にたいしてでしょうか。頼りにならなければ、自分の頼りなさを見つめればいいじゃないですか。恋に苦しむものがその苦しみを苦しむように。
われ(アートマン)というものはない。われがなくわがものがないなら、その仏陀の語った全ての言葉は誰からのものでしょうか。仏陀は必ずそれについて喋ってるはずです。それが知りたい。われがなくわがものがない仏陀の目に見えていたものは何なのでしょう。これは僕の予想ですが(競馬の予想とは違います)聖書のヨハンネスの最初のページ「初めに言葉ありき・・・」と同じような事を何処かで言ってませんか。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。(相応部経典22.55 増谷文雄訳)
仏陀の「信仰を捨てよ」というのはよくわかります。信仰を捨てる為に必要なものは仏陀の見ている世界だったからです。信仰を捨てる為には信仰が必要だったのです。一体に僕は信仰するというのがよくわかりません。なぜ自分の家で寝起きしないで他人の家で寝起きしたがるのでしょうか。ですから聖書の後半の半分以上はキリストを信じてる人の著述ですから最初から読む気が起きませんね。。そして「信仰を捨て」て「死の領域の彼岸にいたる」のですから、仏典には「死」について書かれてないとおかしいですね。何処かで言ってませんか。
「仏教における魂と神」(その1)に人間がブッダ(めざめた人)になること(成仏)を理想としますが、キリスト教では、逆に、人間が神になろうとすることは神に対する罪であり、理想ではありません。仏は人間ですが、神は人間ではないからです。とありますが、ここのところは佐倉さんらしくありません。障子紙を破るような乱暴さが・・・・(変な言い方ですね)。正宗白鳥は「聖書に書いてあるような生き方など出来ないよ」と言ったそうですが、キリストは(めざめた人)になることを理想としませんでしたか。ただひたすら神のみを思えとか、完璧となれとか、隣人を愛せとか言ってたように覚えています(直接聞いたわけじゃありませんけど)。神のみを思えと言うのは、親の事も子の事も思わずただひたすら神のみ思えと言ういうことですからずいぶんゾクッとすることを言ったものです。一切迷わない為には神のことだけ考えよと言うわけです。僕もそれができたらいいな、とは思いますけど。完璧となれとは、出発点だと思います。ここから出発せよ、と。完璧でなければ出発もない、と。隣人を愛せと言うのは、仏陀が他人を見て「700年前から知っている」(うろ覚えです。佐倉さんのページの何処かに書いてあった。他にお釈迦さんの事読んだ事ないので。300年だったかな。)と言うのと同じで、そうでなければ隣人は愛せないという事でしょう。(母親と出会ってから何年たっただろう。)ですからキリストの方でも(めざめた人)になることは理想とされているのです。
「信ぜよ、さらば救われん!」ではなく、「信ぜよ、確実と思えるものは確実なものとして、あやふやなものはあやふやなものとして、間違いであると思われるものは間違っているものとして!」これは「学問と救済と超越」の佐倉さんの言葉です。重箱の隅をつつくような、去年書いた事なぜ引っ張り出すんだという感じがしますけど、一つ聞きたいんです。これは快楽と共にあったのかな、という事です。あやふやだったり間違っていたりしてるのに信じるとは何の事なのか。そして確実と思えるものを確実なものとするためにはどんな後ろ盾があったのか、ということです。快楽は感じましたか。快楽以外の後ろ盾とはなんでしょうか。
佐倉さんのホームページを久しぶりに訪ねて懐かしかったです。僕がコンピュータを買って最初の頃に訪ねたページですから。健在ですね。何万人入ったとかカウントがないのもいいですね。アレ馬鹿みたい。怖くないですかね何万人も入って。「パーリ語にのんびりチャレンジします。予定も計画もなし。やりたいときにやりたいだけやり、やりたくなければいつまでもやらない、いいかげんな「チャレンジ」です。」いいですねー。僕も仕事に行くバスを一台やり過ごしたりして、ベンチで次のバスを待ちながら「待ってる自分」を楽しんだりしています。自由っていいですね。自由ってどのくらい大きいんだろう。
聞きたい事は山ほどありますけど、(輪廻転生の考え方などもずいぶん僕とは違う。)もう終わりにします。
(1)真理と信仰について
物事を素直に見つめる事以外に何を求めているのでしょうか。「真理」でしょうか・・・。わたしの辞書によれば、横断歩道を渡るとき、信号をみきわめて渡るのを「真理に従う」と言い、それに対して、サイコロを振って渡るかどうかを決定するのを「信仰に従う」と言います。「信ぜよ、さらば救われん!」ではなく、「信ぜよ、確実と思えるものは確実なものとして、あやふやなものはあやふやなものとして、間違いであると思われるものは間違っているものとして!」これは「学問と救済と超越」の佐倉さんの言葉です。・・・一つ聞きたいんです。これは快楽と共にあったのかな、という事です。
(2)イエスについて
[イエス]は(めざめた人)になることを理想としませんでしたか。ただひたすら神のみを思えとか、完璧となれとか・・・。していません。
(3)「死の領域の彼岸にいたる」
「信仰を捨て」て「死の領域の彼岸にいたる」のですから、仏典には「死」について書かれてないとおかしいですね。何処かで言ってませんか。仏教はたくさん死について語っています。死というものが人間苦を代表するからでしょう。「死の領域の彼岸にいたる」というような表現は、仏教特有の表現ではなく、インドの宗教に共通した、宗教的目的を達成することを意味する一般的表現です。インドには巨大な川があり、その氾濫によってしばしば人や物が押し流されてすべてを失ったりします。そのためでしょう、人生の苦しみがしばしば暴流に例えられ、人生苦からの救いを、流れを渡りきって安全な「彼岸に至る」ことや「よすがとなる洲に至る」ことに例えられています。
仏教はその目的である「苦からの解脱」を執着心を捨てることによって達成できると考えていたので、ブッダは、まだ生きているのに、「死の領域の彼岸にいたった人」とか「如来=うまく流れを渡ってきた人=修行の目的に到達した人」とか呼ばれたのです。
ドータカよ、・・・そなたは最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。(スッタニパータ 1064)この世で彼岸に達するのです。この世で老衰と死の苦しみを超克するのです。日本的な感覚で彼岸のことを「あの世」と解釈してはこれらの仏典の言葉は理解できません。彼岸に達するというのは、老衰や死によって代表される人生の苦しみから解放されることを象徴的に表現したインド特有の表現だからです。ブンナカよ。世の中でかれこれを究め明らめ、世の中で何ものにも動揺することなく、安らぎに帰し、煙りなく、苦悩なく、望むことのない人、--- かれは生と老衰とを乗り超えた --- と、わたしは説く。(同 1048)
このようにしていて、よく気をつけ、怠ることなく行なう修行者は、わがものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、この世で知者となって苦しみを捨てるであろう。(同 1056)
何ものも所有せず、欲の生存に執着しないバラモン・ヴェーダの達人であるとそなたが知った人、--- かれは確かにこの煩悩の激流を渡った。かれは彼岸に達して、こころの荒びもなく、疑惑もない。(同 1059)
ヘーマカよ、この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。(同 1086)
いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、--- これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。(同 1094)
(4)自由の広さ
自由っていいですね。自由ってどのくらい大きいんだろう。とりあえず、他人の自由を侵害しない範囲、ということでどうでしょうか。