桑原です。

アレッと思いました。

「自由ってどのくらい大きいんだろう」と僕が書いたのは佐倉さんがバーリ語にのんびりチャレンジすると言うので僕と同じように自由のことを考えてるんだなと思ったからです。自由の大きさを見極めると仏陀のニルヴァ−ナに至ると思うからです。ですから「あの世」のことを彼岸とは勿論考えてはいませんし自由の大きさを「他人の自由を侵害しない範囲」とは勿論考えていません。

自由の大きさを感じるとき自分の個性などというものがつまらなくなります。個性が小さくなればなるほどそこにあるものの大きさが増してきて、そこにあるものに自分を任せたいと思います。それが自由と言うものでしょうし、なにもかも決まっているのだなと感じます。こう書くと自由なのに決まってるとはなんだって言われるかもしれませんが、決まってると言うのは成るがままに身を任せるという事だと思います。

苦しみは何をやっても潰れないですけど、苦しみの正体がわかるときがあります。そうすると苦しみはなくなって快楽が体中に蔓延します。苦しみの正体は「言葉」によって明確にする事が出来ます。その言葉は「確実なもの」として快楽を感じます。ですから「確実なもの」は僕にとっては快楽によって成り立つのです。ですから聞きたかったのです。仏陀の言葉は何処からのものか。仏陀の「確実なもの」としての言葉は何によっているのか。謎は人間の感じるものなのでその答えを仏陀は誰から貰ったのかな、と思います。

人の心は壷のようになっていて底が壊れると宇宙(無)が入り込んできて心に無を抱え込みます。(こういう書き方はいけませんか。)無はないと言う意味で地獄だしあるという意味で極楽です。あるとかないとかは「関係」です。ですから仏陀は地獄と極楽について書かれてないとおかしいと思います。佐倉さんは死の超克についての仏陀の言葉をたくさん引用してくれましたけどそれは死についてではありませんでした。死が怖くないというのは死がわかった事ではないので、仏陀によって見つめられた死を知りたかったのです。

返信ありがとうございました。

世間には一を聞いて十を解する人もいるそうですが、わたしは「十を聞いてやっと一を解する人」なので、誤解ばかりしています。

(1)自由の大きさについて

わたしは、何についてでもそうですが、自由についても別に深遠なことを考えているわけではありませんので、「自由はどのくらい大きいのだろう」などといわれても、つい、「他人の自由を侵害しない範囲」などと、しごく平凡なことを言ってしまいます。しかし、あえて、ブッダの言葉に則して言えば、「世界中で自分より大切なものはない。そしてこのことは世界中のどの人にとっても事実なのであるから、世界中で自分より大切なものはないと知る者は、他人を害することがあってはならない。(サンユッタニカーヤ 3:8)」ということになるでしょう。

それはまた、人間の存在は個人の中にある魂のような永遠不変の実体(アートマン)によって支えられているのではなく、さまざまな条件と要件との相互関係に依存してその存在が保たれている無常の存在だ、というブッダの縁起の思想にも関連したものとも言えます。つまり、このわたしの存在はいろいろな物や人々の「おかげさま(縁起)」である、というわけです。そうではなく、もし、わたしの存在がわたし自身に内在する永遠不変の実体(アートマン)や宇宙神によって支えられているのなら、わたしは、他人の自由のことなどに思いも至らず、わたしの自由の大きさは無限であると思い込んでいることでしょう。


(2)快楽と確実なもの

つぎのような、「快楽」と「確実なもの」に関するご意見は、わたしには、わかりにくいところがあります。

・・・・確実と思えるものを確実なものとするためにはどんな後ろ盾があったのか、ということです。・・・快楽以外の後ろ盾とはなんでしょうか。

・・・・苦しみは何をやっても潰れないですけど、苦しみの正体がわかるときがあります。そうすると苦しみはなくなって快楽が体中に蔓延します。苦しみの正体は「言葉」によって明確にする事が出来ます。その言葉は「確実なもの」として快楽を感じます。ですから「確実なもの」は僕にとっては快楽によって成り立つのです。

おそらく、
(ア)あることが明確になると、それは「確実なもの」としてわれわれに快楽をもたらす。
(イ)「ですから」、あるものを「確実なもの」と断定している後ろ盾はわれわれの快楽である。
というようなことではないかと思います。わたしは、(ア)の主張には同意しますが、(ア)から(イ)をどのようにして導出されたのか、わたしにはその論理の筋道がまったく見えません。どのような論理的手続をとって(ア)という前提から(イ)という結論を導出されたのでしょうか。


(3)「確実なもの」とブッダ

以上のような、快楽と確実なものとに関することから、さらに理解するのが難解な、次のようなことが語られています。

ですから聞きたかったのです。仏陀の言葉は何処からのものか。仏陀の「確実なもの」としての言葉は何によっているのか。謎は人間の感じるものなのでその答えを仏陀は誰から貰ったのかな、と思います。
もし、上記(2)に示されたように、確実なものが快楽によって成り立つとすると、仏陀の「確実なもの」としての言葉はやはり、「快楽」によって成立している、ということになるのでしょう?!?! そうすると、ブッダは「快楽」からその答えをもらった、という結論になるのでしょうか??? ここに語られている言葉は、わたしには、ほとんど、理解不可能です。


(3)無・無・無

人の心は壷のようになっていて底が壊れると宇宙(無)が入り込んできて心に無を抱え込みます。(こういう書き方はい けませんか。)無はないと言う意味で地獄だしあるという意味で極楽です。
どんな書き方をしようとそれは個人の自由だと思いますが、このような表現は読む人に過大の労力を期待しています。分かりやすく表現する努力を書く側がしなければ、読む側はそれだけ苦労します。

苦労しても苦労するだけの内容があれば苦労のしがいもありますが、しばしば、思わせぶりに過ぎない場合が多く、たとえ、重大なことが書かれていたとしても、とくにわたしのような鈍感な頭脳の持ち主には、このような難解な文章は、努力しても報われることが少ないので、無視することにしています。(「何を言いたいのかわからない本」参照)

ところで、仏典がわたしをひきつける理由の一つは、そこに語られているブッダの言葉が、いつも、明晰でわかりやすいからです。


(4)死とブッダ

佐倉さんは死の超克についての仏陀の言葉をたくさん引用してくれましたけどそれは死についてではありませんでした。死が怖くないというのは死がわかった事ではないので、仏陀によって見つめられた死を知りたかったのです。
仏典に残されている、死に対するブッダの態度は非常に明晰で、たびたび繰り返されており、疑う余地がありません。
生まれたものどもは、死をのがれる道がない。老いに達し、そして死ぬ。じつに生あるものどものさだめは、まさにこのとおりである。・・・だから、師が教えられたように、人が死んでなくなったのを見るとき、かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ、とさとって、嘆き悲しみを捨て去れ。(スッタニパータ、575〜590)

これが「仏陀によって見つめられた死」です。人は必ず死ぬ。死んだ人はどうにもならない。死んだ人の死後については誰も何とも言えない。死後も生き残って永存する魂のようなものがあると思い込むのは愚かである。云々。(「無我の思想 第二章 ブッダの沈黙」参照)


(5)ブッダの預かり知らぬ思想

宇宙にみなぎる大生命のようなものがあって、人間の一人一人の生命はその大生命の一部にすぎず、人間はそこから生まれそこに帰っていく、そういう汎神論的な思想が、仏教のおしえとして、日本では流行したりしますが、ブッダの預かり知らぬ思想です。それは、むしろ、梵我一致(宇宙神ブラーフマンと人間の魂アートマンの合一)を説くバラモン教の哲学ウパニシャッドの神秘主義の思想であって、いつのまにか、後代の仏教に取り入れられ、ブッダの教えとして中国や日本にも伝わったものです。

わたしの誤解かもしれませんが、桑原さんのいくつかの言葉じりにも、それらしき思想があらわれているような気がします。

個性が小さくなればなるほどそこにあるものの大きさが増してきて、そこにあるものに自分を任せたいと思います。それが自由と言うものでしょう・・・。

仏陀の「確実なもの」としての言葉は何によっているのか。謎は人間の感じるものなのでその答えを仏陀は誰から貰ったのかな、と思います。

人の心は壷のようになっていて底が壊れると宇宙(無)が入り込んできて心に無を抱え込みます。

その仏陀の語った全ての言葉は誰からのものでしょうか。仏陀は必ずそれについて喋ってるはずです。

しかし、ブッダは、人間の知覚や経験を超えるものについては何も語りませんでした。
みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。

誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。(サンユッタニカーヤ 33.1.3)