ご丁寧なお返事ありがとうございます。
宗教は社会的な必要に迫られて起こる一種の「社会現象」だと思います。釈迦の当時、人々の苦悩は特殊な階級制度(カースト制度)に起因する所が大きかったのではないでしょうか。四苦八苦もカースト制度によって、より複雑で陰湿な性格を持っていた様に思います。「カースト制度を否定することが人間の苦悩を軽減することに繋がる」ために、釈迦はその理論基盤である輪廻思想を否定したのだと思います。
実際に弟子たちはカーストに関係なく自由に生活していました。その意味では釈迦は革命家であったと思います。力による革命ではなく、「智」による社会改革、階級制度の打破を意図していたのではないでしょうか。
日本で釈迦について語られる時、当時の社会背景が往々にして無視されるのがとても残念です。インドの特殊な状況、つまりカースト制度抜きに釈迦の思想を語ることは出来ないとすら思っています。四苦八苦にしても、低い階層のカーストは高い階層と比べて質的に遥かに悲惨でした。輪廻思想は下層の民衆が革命を起こさない様にする為のマインドコントロールだったのだと思います。「諦め」と「来世への希望」によって爆発を防ごうということです。
ところで、釈迦が「信仰は悟りの妨げになる」と言う考え方を持っていたのは、信仰と悟りが共存できない事を知っていたからだと思います。
私はこの問題について次の様に考えています。
1.テーブルを挟んで向かい合って座っている貴方に「目を閉じなさい」と言います。
2.次に「貴方の前にりんごを置きました」と告げます。
3.この時貴方が自分の前にりんごがあるかないか判断する手だては2つしかありません。
(1)手で探ってみる
(2)近くに目をあけていると言っている人がいたらその人に「りんごがあるかないか」を聞く。
4.(1)の場合、リーチの範囲外にあれば確認できません。
(2)の場合、その人が目をあけているかどうか確認できませんし、仮に開けているとしても嘘をつくかも知れません。
通常、宗教は無形の神仏を盲目的に信仰することを要求しますが、そもそも其々の神仏は確認不可能なのです。 「私は目を開けている」という教祖の言葉を信ずるか否か、それだけのことなのです。目を閉じているから「信仰する」必要があるのであって、そこでは確認不可能な神仏を盲目的に受け入れることが要求されます。
釈迦は、「目を開けること」を説いたのだと思います。もしも目を開ければ、りんごがあると信ずる必要はありません。信じようと信じまいと在るものは在るし、無いものは無いからです。信仰は「目を開ける」事を妨げます。
釈迦の説く八正道とは「目の開き方」であり、信仰を捨てる為の具体的な方法だと思います。八正道の中に「正しい信仰」というのが無いことに気がつくべきでしょう。釈迦は新しい宗教を作ったのではなく、佐倉さんがおっしゃる様に宗教それ自体を否定したのだと思います。
宗教が階級制度を作り出し、それによって多くの民衆が苦しんでいるのを目の当たりにしていたのですから。(あるいは階級制度を維持する為に都合のよい宗教が作られたのかもしれませんが)
(1)「「智」による社会改革、階級制度の打破を意図していたのではないでしょうか・・・」
どんなに、個人的かつ精神的運動のように見えても、宗教にはかならず社会現象としての側面がある、とわたしも思います。そして、ブッダの思想には、輪廻思想(「生まれによってバラモンとなる」)を否定することによって、間接的にカースト制度を否定する契機を含んでいたのも事実だと思います。しかしながら、釈迦が「社会改革、階級制度の打破を意図していた」と主張するには少々無理があるような気がします。それは前回も指摘した通り、わたしたちに残されている釈迦に関する資料(原始仏典)からは、そのような釈迦の姿を引きだすことは困難だからです。
たとえば、釈迦の出家の動機などに関する物語などをみても、釈迦が社会制度を問題としていたという結論を引きだすことは困難です。
わたしはこのように裕福で、このようにきわめて優しく柔軟であったけれども、次のような思いが起こった。--- 愚かな凡夫は、自分が老いゆくものであって、また、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している。--- 自分のことを看過して。じつはわれもまた老いゆくものであって、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--- このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。わたくしたこのように考察したとき、青年時における青年の意気はまったく消え失せてしまった。釈迦が問題としたのは、社会制度そのものではなく、このような、もっと個人的・実存的な危機感であったように思われます。もし、釈迦が社会制度に対して影響を与えたとすれば、それは、目的としてそうなったのではなく、彼の思想の間接的な影響であったと思います。愚かな凡夫は、自分が死ぬものであって、また、死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している。--- 自分のことを看過して。じつはわれもまた死ぬものであって、死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--- このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。わたくしたこのように考察したとき、青年時における青年の意気はまったく消え失せてしまった。
(アングッターラ・ニカーヤ、中村元訳)
ただ、人間の悲苦は、死や老衰のみではなく、悪なる社会制度からも生じます。そうすると、そのような悪なる社会制度をなくす努力をすることは、人間を悲苦から解放することを目指した釈迦の思想に沿うものだと思います。しかし、それは釈迦自身や伝統的仏教の活動にはむしろ欠けていた側面であり、現代や未来の仏教徒が開拓すべき新しい仏教の世界であろうとわたしは思っています。
(2)「八正道の中に「正しい信仰」というのが無いことに気がつくべきでしょう・・・」
まったく、そのとおりだと思います。仏教における信仰は釈迦の死後、彼を超人化、神格化するようになって始ったものにすぎません。しかし、最も古い仏典によれば、釈迦自身は一人の修行者であり、釈迦は自分が誰も救うことはできないことを明言しています。
ドータカよ。わたくしは世間におけるいかなる疑惑者も解脱させえないであろう。ただ、そなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。(スッタニパータ 1064、中村元訳)つまり、人は釈迦によって救われるのではなく、真理を知ることがその人を救うのだと言っています。八正道の教えを見ても、四聖諦の教えを見ても、縁起の教えを見ても、ブッダの思想に「信仰」はありません。(人間の悲苦を生じさせていることがらに関する)無知を克服することが人を解放するのである、という思想で一貫しています。