笠原 祥です。 ご回答ありがとうございました。
(1)仮定と信仰
ここで使われている「仮定」という言葉は、(科学や論理で使われる場合とは異なって)、その意味内容は、実は、宗教が伝統的に使ってきた言葉「信仰」のことなのではないでしょうか。・・・なぜなら、笠原さんが言われているように、「永遠の魂」とか「輪廻転生」とか「実相の世界」の存在が、人を動かし「人生に対して前向きに取り組むことが出来る」ようになるためには、「そうであるかも知れないし、そうでないかも知れない」という仮定の立場より一歩踏み込んで、事実かどうかはわからないけれども、事実であると信じることが必要だと思われるからです。
[人間は]死ぬ時の心の状態、それをそのまま別の世界に持ち越すことになるとしか思えません。というような笠原さんの立場は、まさにそういう、「そうであるかも知れないし、そうでないかも知れない」という仮定の立場を一歩踏み越えて、あきらかに、「永遠の魂」の存在に関して、それを信じる信仰の立場を表明されたものです。
それを信仰と呼ぶならば、おっしゃる通りです。そして、「永遠の魂」とか「輪廻転生」とか「実相の世界」は存在しないというのも、存在しないことを信じる信仰の立場を表明したということになると思います。存在することもしないことも証明できませんが、どちらであっても、それを信じることにより、人生に対して前向きに取り組むことが出来るならば、それは決して「愚かな考え」ではないというのが私の主張です。
ただ、「事実であると信じることが必要だ」というのとは少しニュアンスが異なります。 そう思うからそう思っているだけであり、必要だから信じているのではありません。 また、前後の文からご理解戴けると思いますが、「人間は、死ぬ時の心の状態、それをそのまま別の世界に持ち越すことになるとしか思えません」という表現の主旨は、死後の世界観として「死ねば仏になるとか天国に行く」等というような、棚ぼた的なものは考えられないということです。
(2)事実判断と実存的要請のミスマッチ
わたしが指摘した誤謬とは、「在るか、ないか」という問いに対する笠原さんの(「在る」と信じる)判断と、その判断を下された「合理的」といわれる理由との間にある根本的なミスマッチ(体温を体重計で測る)のことです。前回、指摘しましたように、笠原さんのあげられる「合理的」理由とは、その内実、「そのほうが笠原さんの理想(より良く生きられる、食物連鎖がなくなる、云々)に合致するから」というほどの意味でしかないからです。これでは、そうあって欲しいから、そう信じる、ということ以外のなにものでもありません。
先ず最初に、「在るか、ないか」という問いに答えているものではありません。それに対しては何度も申し上げている通り「 わからない(証明不可)」という立場です。 私がわざわざ自説を持ち出したのは、佐倉様から以前「すくなくとも、死後の世界の問題に関して言えば、わたしは、自我の思想(死後におけるの自分の運命がどうなるかを心配する生き方)よりも、縁起の思想(死んで後に残していく人々へ配慮することのできる生き方)の方をよりすぐれた思想であると認めるようになったわけです」というお答えを戴き、どうして縁起の思想の方が優れているのかが理解できないため、私が「永遠の魂」を考える「理由(証明ではありません)」を述べれば、それをもとに縁起の思想の優れている理由をご説明戴けるかもしれないと考えたからであり、「在るか、ないか」という問いに答えているつもりはありません。 次に私の欲求は単に「より善く生きたい」というものであり、「在って欲しい、在って欲しくない」という類のものではありません。在って欲しいと思っても、無いものは無いし、在って欲しくないと思っても、在るものは在るのです。欲しい、欲しくないなどという感情が、何の役に立つのでしょうか?。 上述の通り、私は「在って欲しい」という個人的要請も持っていなければ、事実問題に関して判断を下しているわけでもありませんので、ミスマッチという表現はあたらないと思っております。
(3)疑似科学
根源的な存在の「質と量が変化するわけではない」というのは、本当に、「敢えて説明するほどでも無い」ほど、確かなものなのでしょうか。・・・・「わたしたちの知っている世界で唯一不変なものは、すべては変化しているという事実だけだ」、と言ったある科学者の言葉は、物質の究極的粒子と言われるクォークの世界にも当てはまると思われます。
そうですね。 おっしゃる通り、「[この世の]本質的な部分は変化しません」というのは単なる推定であり、断定出来ないことです。これは撤回します。
同様に、「わたしたちの知っている世界で唯一不変なものは、すべては変化しているという事実だけだ」というのも、「わたしたちの知っている世界」つまり「観測可能な状況において」という前提の中で成立する事実であって、観測できない世界(例えば超ヒモの10の-35乗m等)については、形而上学的問題と同様に「わからない」というのが妥当だと思います。
余談ですが、超ヒモは一次元上にひろがった"ヒモ"であり、素粒子の多様な世界は、1つの基本的な"ヒモ"の異なるモードとして統一 的にとらえられているとのことです。振動のモードは無限にあるので、対応する素粒子も無限です。そして、エネルギ ーのもっとも低い振動のモードに対応するのがクォークやレプトンであり、またグラビトン(重力を媒介する)や 光子などの媒介粒子だそうです。
この超ヒモが確認されれば、根源的なものは不変か否かに決着がつくかもしれません。しかし、超ヒモ理論は検証が不可能です。この"ヒモ"の大きさは10の-35乗mで原子核を構成する陽子の大きさが10の-13乗cmですから、この陽子と超ヒモ理論の"ヒモ"の比は、ちょうど太陽系と陽子の大きさに匹敵するのです。今までで最高の加速力を持つはずだったSSC(超伝導大型加速器)の円周は54マイルという見積もりでしたが、超ヒモが存在すると考えられる世界を検証するために必要な、超ヒモ理論が有効性を発揮するエネルギー領域(10の19乗GeV)に 到達する加速器は、1000光年の円周を必要とするとのことです。
(4)自己の本質
わたし自身の理解するところでは、無我の捉え方というのは、「自分」というものを成立させている根拠を、内在している魂のようなものとしてではなく、さまざまな人やものとの関係として捉える考えです。・・・・心というものは、そのひとの中に実在している何ものかではなく、その人と他の人々とのあいだの人間関係がつくりだす何ものか、という捉え方は、すべては縁起(依存関係)によって生起しているのであって、それ自体に内在する永遠不変の実体によって存在しているのではない、という無我の考えと一致するものだと思います。
心というものを何故そのようにお考えになるのかという、その理由がよくわかりません。 私には、単にその人に内在する心が、他の人との関係の中において反応し、認識可能なかたち(自分から見れば感情であり人から見れば性格?)として現れたと考えた方が妥当だと思われます。 心がその人に内在しておらず、関係性によって生起するならば、一人一人が有する個性はどのように考えればよいのでしょうか? また、他人との関係を持たない状態、例えば部屋でひとり思索している時の自分の心はどのように説明されるのでしょうか?
また、最も気になるのは「自我の思想(死後における自分の運命がどうなるかを心配する生き方)よりも、縁起の思想(死んで後に残していく人々へ配慮することのできる生き方)の方をよりすぐれた思想であると認めるようになったわけです」という部分です。 そのように定義すれば、縁起の思想の方が優れているのは明らかです。しかし、それは佐倉様の個人的定義であって、普遍性はありませんし、「自我の思想」と「死後におけるの自分の運命がどうなるかを心配する生き方」の間には、それを結びつける必然性は何もありません。また、「縁起の思想」と「死んで後に残していく人々へ配慮することのできる生き方」の間も同様です。従って、「自我の思想」を持ちながら、「死んで後に残していく人々へ配慮することのできる生き方」をすることも可能です。というより、「死んで後に残していく人々へ配慮することのできる生き方」は当たり前であって、「死後における自分の運命がどうなるかを心配する生き方」は異常なのです。それくらい、普通の感覚を持っている人ならば、誰でも理解しております。 あるか無いかわからない、死んでしまってからのことを考えるのは愚の骨頂です。一瞬、一瞬という今を、如何に善く(良く)生きるかというのが私の望む生き方であり、そのために「人生の意味」を考えてきたのです。 「死して無に帰す」という考え方は、私にとっては「人生に意味は無い」という結論をもたらしました。人生に意味が無ければ、より善く(良く)生きようという気力が湧いてこないのです。
(5)価値の主体者
価値の主体者そのもの(生物)が存在しなければ、それは無価値(ゼロ価値)にもなりません。そのときは、価値(意味)を云々すること自体がナンセンスです。
ナンセンスではありません。「死して無に帰す」という考え方自体が、主体者の消滅を意味しており、この命題を導出しております。おっしゃる通り「価値の主体者があってはじめて意味を持つ」のです。従って「死して無に帰す」という考え方では、「自分の人生」も自分自身や自分に関係した人々が消滅した瞬間に価値を失い、無に帰してしまいます。その時点で見れば、人生の価値が無に帰してしまったのですから、初めから存在しなかったのと同じことではないでしょうか?
(1)事実問題(魂の有無)と実存的決断(信仰)
私は「在って欲しい」という個人的要請も持っていなければ、事実問題に関して判断を下しているわけでもありませんので、ミスマッチという表現はあたらないと思っております。
わたしは誤解しているのでしょうか。むしろ、わたしが理解しているように、笠原さんは「霊魂の有無」といった事実問題に関して、「有り」という個人的判断を下しておられるのではないでしょうか。
「死後も生き残る魂なるものがあるのかどうか」という事実に関する問いに対して、「ある」あるいは「ない」という可能性がありますが、笠原さんご自身も認めておられるように、わたしたち人間はこの問題に対してどちらが真実であるかを知るための認識能力を持っていません。
ブッダは、認識の届かない死後の世界のような事柄に関して「ある」とか「ない」とか断定する立場を「愚か」であると批判しました。それに対して、笠原さんは
私は、「我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう」などと考えるのは、「まったく愚かな教え」であるという意見に対して、異なる立場をとります。(8月4日)と述べられてきました。ここで、「考える・・・」とか「仮定する・・・」とか「思う・・・」という、一見中立的な意味にも読み取れる言葉を使用されているために、笠原さんの意味するところが少し見えにくくなっているのですが、すでに明らかになったように、それらは「信じる」という意味です。つまり、この、霊魂の有無というような事実問題に対して、「わからない」と言いながら、実際は、「あるかもわからないし、ないかもわからない」という中立的立場から、一歩踏み出して、一つの選択をする立場です。それは、前回も指摘しましたように、「永遠の魂」とか「輪廻転生」を考えること[は]「愚かな考え」ではなく、むしろ合理的である・・・(8月6日)
「永遠の魂」とか「輪廻転生」とか「実相の世界」を仮定することにより、人生に対して前向きに取り組むことが出来るならば、それは決して「愚かな考え」ではないと思うのです。(8月14日)
「死後にも生き残る霊魂とかあの世などというものがあるのかどうか」という事実認識に関する問題に対して・・・「死して無に帰する」と考えること[は]合理的でないと考える・・・。 (8月14日)
[人間は]死ぬ時の心の状態、それをそのまま別の世界に持ち越すことになるとしか思えません。(8月14日)
そう思うからそう思っているだけ・・・。(今回)
わからないけど信じる。という、伝統的な宗教が語ってきた信仰の立場にほかなりません。「死後生き残る魂」があるかないかという事実問題に関して、その答えを知らないにも関わらず、「ない」という答えを否定し、「ある」という答えを肯定しておられるからです。この問題に対して、笠原さんが、一つの答えを選択し、決断を下しておられるのは、あきらかです。
そして、その選択・決断の根拠は、無意識的・盲目的なものではなく、笠原さんが「合理的」と言われるもの、すなわち、人生の意義とか価値とかいう実存的な理由です。
「永遠の魂」とか「輪廻転生」とか「実相の世界」を仮定する(信じる)ことにより、人生に対して前向きに取り組むことが出来るならば、それは決して「愚かな考え」ではないと思うのです。(8月14日)このように、笠原さんは、霊魂の有無というような事実問題に対して実存的に答えを出されているのです。もし、ここで、この事実問題に対して、なんらかの証明(認識的判断)を試みておられたのなら、それは、根本的な誤りとははならなかったであろうに、人生の意義とかむなしさとかという実存的な理由で、事実問題に決断を下されているのですから、ミスマッチ(体温を体重計で測る)と言わざるを得ないのです。これは、雨が降っては折角の休み(人生)が無駄(無意味)になるため、客観的な気象条件とは無関係に、自分に都合の良い(人生に対して前向きに取り込むことができる)ように天気予報を報じるのと一つも変わりません。これは、事実の読み違えなどという生易しい認識上のあやまちではなく、根本的なあやまち(笠原さんの言葉で言えば「愚の骨頂」)です。「死して無に帰する」と考える(信じる)こと[は]合理的でないと考える・・・。 (8月14日)
「死して無に帰す」という考え方は、私にとっては「人生に意味は無い」という結論をもたらしました。人生に意味が無ければ、より善く(良く)生きようという気力が湧いてこないのです。 (今回)
(2)心の正体
心というものを何故そのようにお考えになるのかという、その理由がよくわかりません。
自分の中のどこをさがしても心が見つからないのはもちろんのこと、心自体が自分(心)が存在しているかどうかさえ知りません。(もし心が実体として存在するなら、心は自分が存在していることをわざわざ「想定」しなければ存在していると考えることのできないほど愚か者といえるでしょう。)こんな心の正体とはいったい何でしょうか。ふたたび、精神分析学の説明を聞いてみることにしましょう。
自我の問題に関しては別のところで述べたことがあるので簡単に済ませるが、人間の自我は、種子から芽が出てくるように、人間が成長するにつれて自然と持つようになる何らかの実体ではなく、他者との人間関係のなかで構築される共同幻想であり、他者によって支えられている。個人は、自分一人だけでは、一つの肉体は持っているかもしれないが、自我はもち得ない。個人は、人間関係の中の網目の中の一つの結び目のようなものである。個人は他の誰かであることによってはじめて、世界のなかにおけるおのれの位置を獲得する。個人は、箱のなかに石が存在しているような意味で世界の中に実体として存在しているわけではないから、彼の位置を規定してくれる他者が一人もいなくなれば、何者でもなくなり、無に転落する。箱から取り出されても、石は依然として石であるが。われわれは、親にとっての子であり、妹にとっての兄であり、女にとっての男であり、患者にとっての医者であり、家主にとっての借家人である。これらの「子」とか「兄」とか「男」とか「医者」とか「借家人」とかの属性の総合がすなわち自我なのであって、自我という芯が別のところに実体として存在していて、これらの属性を付加的にもっているというのではない。これらの属性を一つ一つ剥いでいけば、玉ねぎの皮をむくように、自我はなくなってしまう。こんどは、初期の仏教の経典をひもといてみましょう。(岸田秀、『続ものぐさ精神分析』、「近親相姦のタブーの起源」、中公文庫、206〜207頁)
人間がさまざまな欲望を持ち、しばしば欲望同士が対立することは確かである。この場合、ある欲望と対立するために「実現」されない欲望というものは確かに存在するが、しかし、欲望とは実体ではない。個人をある方向へ駆り立てるエネルギーといったものではない。欲望とは個人の人間関係、世界との関係のあり方の一つの形であって、個人が対立する二つの欲望を持っているということは、世界との関係の二つのあり方のあいだで迷っているということであり、その一方を選んだということは、そのような形で世界との関係を持ったということであ[る]。
(岸田秀、『幻想の未来』、「真の自己」、河出文庫、127頁)
[悪魔が語りかけた。]「この<生ける者>は、だれが作ったのか? <生ける者>の作者はどこにいるのか? <生ける者>はどこから生じるのか? <生ける者>はどこに滅びるのか?」車とは、車の実体といわれる本質があって、その実体にいろいろな属性が付加的にくっついている、というようなものではなく、車はそれ自体で存在しているのではなく、車輪や車軸や車体などのさまざまな部分の集合によって、それらに依存して生起している現象(仮の存在)にすぎず、車として生起させているものを一つ一つ取り除いてしまえば、何も残りません。車の実体はないのです。これは、人間存在(自我)というものが、実体ではなく、他に依存して生起(縁起)している現象(仮の存在)であるにすぎないことを主張するために、しばしば仏典に現れる典型的な無我の論理です。[ヴァジラー尼は答えた。]「そなたはなにゆえに<生ける者>というものを認めるのか? 悪魔よ。汝は悪しき見解をいただいている。この<生ける者>はただもろもろの形成されたものものの集合である。ここに<生ける者>は認められない。たとえばじつにもろもろの部分が集まったならば<車>という名称が起こるように、それと同じく、五つの構成要素(五蘊)が存在するのに対して<生ける者>という仮の想いが起こるのである。」
(中村元訳『サンユッタニカーヤ』より、『ブッダの人と思想』、NHKブックス、102頁)
心がその人に内在しておらず、関係性によって生起するならば、一人一人が有する個性はどのように考えればよいのでしょうか?
人はだれも、一卵性双生児でさえも、同じ時に同じ場所を占めるわけにはいかないのですから、すべての人の世界との関わり方は必然的に異なっています。似ることはできても、同じであることは不可能です。関係性は個性の相違と相似の両方を同じ原理のもとで説明することができます。
他人との関係を持たない状態、例えば部屋でひとり思索している時の自分の心はどのように説明されるのでしょうか?
交渉を絶っていることは、関係がなくなることではなく、世界との関わり方のある特殊な一形態にすぎません。それに、他者との関係をまったく築いたことがなければ(たとえば生まれつき、独房に放り込まれているだけなら)、人は言葉を知らず、言葉を知らなければ、思索することなどできません。他人と語り合うことを経験したものだけが、自問自答(思索)をおこなうことができるからです。
前にも指摘しましたが、わたしたちがよくわからない現象X(心)を説明するために、それ(現象X)についてよりもわたしたちがもっと知らない(実は何も知らない)Y(心の実体、魂)を持ってきて「説明」しても、知らない現象X(心)についてのわたしたちの知識を何ひとつ増やすことにはなりません。無知によって「説明」された事柄は、まだ何も説明されていないからです。 「なぜこんな性格をしているのか、こころがそんな性格をしているからだ」というのは説明ではありません。
それに比べて、人の世界との関係というものは、もちろん複雑ですべてを知るわけにはいきませんが、わたしたちはそのいくつかを観察したり、比べたりすることができます。雷の正体は、雲の上の住人が太鼓を叩いているのではなく、物質と物質の相互関係から生じる放電現象にすぎないことを、科学が見破ったように、心の正体は、内在する住人(実体)ではなく、さまざまな依存関係による生起(現象)であることを、ブッダや現代の精神分析学は見破ったのだと思います。
(3)価値の関係性
「死して無に帰す」という考え方では、「自分の人生」も自分自身や自分に関係した人々が消滅した瞬間に価値を失い、無に帰してしまいます。
一切の主体者が存在しないのであれば、価値を失うことも、価値が無に帰すこともありません。価値の主体があって初めて価値を云々することに意味があるからです。わたしたちが、「価値がある、云々」を言うとき、それをもう少し正確に記せば
あるものaは、ある期間tにおいて、ある価値主体者Aにとって、X量の価値がある。と書くことができるでしょう。ある期間tにおいて、Xがゼロよりも大きければ、aはAにとってプラスの価値があります(有り難い)。Xがゼロよりも小さければ、aはAにとってマイナスの価値があります(迷惑)。Xがゼロであれば、aはAにとって無価値です(あってもなくてもよい)。
たとえば、ある人(A)にとって、ぬいぐるみ(a)は、彼女が子供の時(t1)は、たいへん気に入っていた(X>0)が、成長するにつれて(t2)、あってもなくてもよいものとなり(X=0)、大人になると(t3)、邪魔になった(X<0)、といった具合です。もちろん、この同じぬいぐるみは別の人にとっては全く違う価値の歴史を持っていたかもしれません。
さて、もしこの人(A)が「死して無に帰す」と仮定する(t4)と、このぬいぐるみ(a)の価値は、この人(A)にとって、無価値(X=0)になるのではありません。それが、「あったほうがよい」とか「ないほうがよい」とか「あってもなくてもよい」ということを決める価値主体者(A)がもういないからです。存在しない価値主体者(A)にとってのぬいぐるみの価値を云々すること自体がナンセンスとなるのです。
あるものの価値があったり、なかったり、無(ゼロ)に帰すことができるのは、「誰々にとって」という項があるからで、「誰々にとって」という項がなければ、その価値は無に帰すことさえもできません。すべての価値主体者が存在しなくなると、ものの価値がなくなるのではなく、価値を云々する意義が消失するのです。
価値にはいかなる実体もありません。主体者と対象物との間で絶えず変化する相互関係によって生じる一つの現象(仮の存在)にすぎません。価値の正体が実体ではなく関係であることをしっかりつかんでおられたら、価値の主体者が存在しないところで価値を云々するという、大きなあやまちを犯されることはなかっただろうと思います。
(4)自我の思想と死後の世界
「自我の思想」と「死後における自分の運命がどうなるかを心配する生き方」の間には、それを結びつける必然性は何もありません。
「死後における自分の運命がどうなるかを心配する生き方」こそが「自我(霊魂)の思想」を生んだのだと思います。死後における自分の運命を心配しなければ「自我の思想」など生まれるはずはなく、いったん生まれた「自我の思想」も、それを必要とする動機が人間の内側から消滅するとき、自然消滅します。
もちろん、これはわたし自身の個人的な経験にそって言っているわけですが、キリスト教やバラモン教やウパニシャッドやヒンズー教などの宗教思想史を見ても、日本の巷のいろいろな伝統的あるいは信仰宗教の宗教文献を見ても、永遠の魂の教えを説く宗教はほとんど例外なく、「死後における自分の運命がどうなるかを心配する」ものばかりです。例を一つ挙げれば、新聞に載っている幸福の科学の『永遠の法』の広告の見出しには、「人は、死んだら、どうなるの?」などとなっています。笠原さんがもっともこだわっておられるのも、やはり、「人は死んだら無と帰すのか」という問題にあるように思われます。
「自我の思想」には二種類あり、一つは「人は死んでも永遠に生きる」という考え方であり、他方は「人は死んだら無と帰す」という考え方です。仏教は前者を「常見」と呼び、後者を「断見」と呼んで、その両方を批判して、仏教の無我・縁起の立場を「中道」と呼びました。常見も断見も「死後における自分の運命がどうなるかを心配する」点において同類の思想です。
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないという考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。「人は死んだら無と帰すのかどうか」というような問題は、ブッダの生き方にとってはまったく必要のないものでした。そこで、(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473〜478頁)
「死して無に帰す」という考え方は、私にとっては「人生に意味は無い」という結論をもたらしました。人生に意味が無ければ、より善く(良く)生きようという気力が湧いてこないのです。 (今回)という笠原さんの立場との違いがとても興味深く思われます。いったいブッダの考え方と笠原さんの考え方の違いはどこから生じてきたのでしょうか。それは自己の捉え方の違いから生まれてきたのだ、というのがわたしの意見です。自己というものを内在する実体と捉えるか(自我の思想)、それとも、自己というものをさまざま相互関係から生起した現象(無我の思想・縁起の思想)と捉えるか、その違いだと思います。自己というものを内在する実体と捉える者にとっては、自己の死とは「自己が無と帰すかどうか」という問題にしかなり得ないでしょう。そのために、なぜ「自己が死によって無と帰すかどうか」という問題が人生を有意義に生きる上でまったく不必要なのか、納得できないことになるのだと思われます。 P>