はじめまして、このページの存在は1年以上前から知っていたのですが、初めてお便りします。すべてを読んだわけではないですが、佐倉さんの合理的な考え方に学ばされるところが大です。
私自身も宗教ではないですが、このペーシに投稿されている方々を一方的に笑えない、(楽して金儲け)、あるいは(自分は死んだら天国にいくぞかな)的な思想にはまったことがあります。そんなものにはまると現実には大した努力はせず、寝る前に祈り、昼飯食ったら祈りの毎日でした。もちろんそんなことで人生に奇跡が起こるはずもないのですが、それを信じているときは、まだ信念(信仰?)が足りないのだと自分に言い聞かせていたのだから本当に救えません(^^)。そのときもこのページを見てはいたのですが、「こんなファンダメンタリストたちと自分は違う」と思っていたのですから、本当にお笑いです。
仏教についても、諸行無常とか諸法無我の言葉は知っていましたが、現実の世界でなんの役に立つのかと勝手に思いこみ、もっと役に立たない思想にはまっていたわけです。
しかし、佐倉さんと来訪者の方々とのやりとりを見ているうちに、自分以外のものに頼るのは、ずるい考え方であるし、最も人間にとって大切な自由意志を失うことでもあると思うようになりました。
人間が自由であるということは、やはり釈迦がいったように諸法無我が正しいと思います。本当の自分というものが存在し、それを見つけるのが人生の目的になったとき、人間の自由意志は存在価値がありません。本当の自己を探る以外の意志はすべて迷いと片付けられてしまいます。うまくいえませんが、人間は殺人者になる自由も、世のため人のためになる自由も持っているのです。少なくとも巷にいわれている神(善人を天国に召し、悪人を地獄に落とす)に善行を行うように強制されたら自由意志というものは意味を失うでしょう。本当の自分自身は存在しておらず、人間はなりたいものになれるのではないでしょうか。もちろん神とかウルトラマントかではなく現実的な意味でですが。
私は本を読んで最初に書いた信念に自分一人ではまっただけですので、その信念(信仰?)を捨てるのに、他人の邪魔立てはありませんでしたが、なかなかやめられなかったのは、「もうちょっと祈ればよいことが起こるのでは」との欲からです(^^)。
しかし、このページを何回も訪れているうちに、「自分の人生には自分で責任を持とう」(少なくともいるかいないかわからない神は当てにしないで)と思うになりました。カルト集団にいる方々の考えはわかりませんが、案外と私のように、「もうちょっと(でいいことが・・・)」と思いながらずるずると引きずられている人も多いのではないでしょうか。私の場合、それなりに仕事はこつこつやってきておりますので、深刻な挫折感はありませんでしたが、{自分一人の信念(信仰?)したのでお布施もなにも無し}(^^)世のカルト集団のことを聞いたりすると、人ごとながら気にしてしまいます。その集団に入っている間より、友人たちや親族たちの説得で離れてからが大変そうです。けれどもインターネットには、そのような方々の支援を行うページも存在しているんですね。そのような人々の助けにはなりませんが、私のつたない経験が何らかの示唆を与えるならば投稿しようと思っています。
前後の文脈が飛んだりして読みにくいかもしれませんが、このようにいろいろな方たちの思想や信条を自由に発表できる(今のところマスコミにも邪魔されない)インターネットの世界は、すばらしいと思います。
佐倉様のますますのご活躍をお祈りいたします。(あれ、祈るのはやめたはずじゃ)(^^)
人間が自由であるということは、やはり釈迦がいったように諸法無我が正しいと思います。本当の自分というものが存在し、それを見つけるのが人生の目的になったとき、人間の自由意志は存在価値がありません。本当の自己を探る以外の意志はすべて迷いと片付けられてしまいます。うまくいえませんが、人間は殺人者になる自由も、世のため人のためになる自由も持っているのです。少なくとも巷にいわれている神(善人を天国に召し、悪人を地獄に落とす)に善行を行うように強制されたら自由意志というものは意味を失うでしょう。本当の自分自身は存在しておらず、人間はなりたいものになれるのではないでしょうか。
人間が神〔教祖)の奴隷になっていく論理的過程は興味深いものがあります。救いという恩恵を得るために、信者は神〔教祖)の力を偉大視する必要があります。実力のある神〔教祖)こそが実際に救いをもたらしてくれるはずだからです。そのようにして、救いの必要性から偉大化してしまった神〔教祖)は、当然のことながら、信者自身に対しても支配力を増加させる結果となります。こうして信者は、自ら望んだとはいえ、完全に神〔教祖)の奴隷になっていかざるをえないわけです。
そうすると、なにが真の自己であるかさえも、神〔教祖)に与えられるということになるのは必然です。そして、その神〔教祖)は、信者が自分に従属するように信者の「真の自己」を規定するのです。
あなた方はなにゆえに生まれてきたのですか?仏陀[大川隆法総裁先生]に出会うためにうまれてきたのでしょう?すくなくとも、いま日本に生まれているならそうです。思い出しなさい。生まれるまえのことを。大川隆法総裁先生は地球をおつくりになったかたです。みんな、先生の弟子としてずっと修行してきたんですよ。忘れてませんか?あなたがたにとりついている、悪霊にまどわされてはいけません。法にそむいていたら、もう人間として生まれるのは最後かもしれませんよ。もう一度いいます、思い出してください。あなたがたの使命を。教えをみればみんな分かるはずです。太陽の法を読みなさい。早く目覚めて下さい。よくよく考えてみれば思い出すでしょう?
などというのは、その典型的なものと言えるでしょう。こうして、宗教奴隷が生まれてくるのだと思います。「使命」だとか「人間の目的」とか「人生の目的」などというのは、すべて、神〔教祖)が信者を自分に従属するように規定した信者の「真の自己」だと言えるでしょう。