(注:このお便りは、先日いただいたお便りに続いて、わたしがまだ応答できていないうちに、いただいたものです。-- 佐倉)
佐倉さんこんにちは。その後、空=縁起=無自性について考えてみましたが 私が空であるとき、私という縁起にどんな縁起があって、どんな自性がが無いのかどうしても分からないのです。
結局、私の主観にも客観にもなにもない、あるいは主観も客観もまぼろしのようなものとなるような気がします。 ならば空とは何もないということと同じようなものであり、この世界も私もまぼろしと同じようなもののような気がします。 また生の世界がどのようなものであり、人が死後どのようになるかははっきり分かるような気がします。 死後の世界は空ですから、何も無いのではなく、無自性なのです。ということは、死後の世界ははっきり分かったことになります。
世界が空の場合、縁起はあるでしょうか?あります。
世界が空でない場合、縁起はあるでしょうか?あります。
ということは、空=縁起、は間違いとなります。
半月
今回のお便りと、前回のお便りに対するわたしの応答が行き違いになってしまいました。
すでに、わたしの応答では、なぜナーガールジュナが空を縁起の概念で説明したのか、考えられる理由を述べましたが、今回のお便りはそれを、バックアップするものがあるのではないかと思います。
つまり、今回、半月さんは「空とは何もないということと同じようなもの」と書かれていますが、まさにそれと同様の事態がナーガールジュナの時代にも起こったのだと思います。反論者がそのような誤解をしていたらしいことは、ナーガールジュナ自身の著作にも書き残されていますし、中村元氏によれば、般若経のなかにもあるそうです。
確かに、あれも空、これも空、みんな空、とだけ繰り返していたのでは、「空とは何もないということと同じようなもの」と考えるようになるのが自然だと思います。この誤解を解くために、ナーガールジュナは空を縁起の概念で説明したと考えられるでしょう。
ところで、
世界が空でない場合、縁起はあるでしょうか?あります。というのは、ナーガールジュナの考えから言えば、間違いとなるでしょう。なぜなら、「空(無自性)でない」とは、「自性」を認めることであり、「自性」(ものの存在の自立性)を認めることは「縁起」(ものの存在の相互依存性)を否定することになるからです。ですから、ナーガールジュナの考えから言えば、世界が空でない場合、縁起はありえません。