はじめまして,佐倉様.Libraと申します.
一つ質問をさせて下さい.
佐倉様は松本史郎氏の如来蔵思想批判についてはどのようにお考えなのでしょう か?私は基本的には賛成の立場なのですが,松本氏の主張を全面的に肯定するわけ でもありません.私の考えについては以下の拙論を参照して頂ければ幸いです.
「如来蔵思想批判」の批判的検討
http://page.freett.com/Libra0000/ronbun01.html
お忙しいと思いますがお答え頂ければ幸いです.
2000.09.14 Libra
松本史郎氏の如来蔵思想批判は、一言で言えば、如来蔵思想は仏教ではない、ということですから、かれの批判を吟味するには二つのことを吟味する必要があります。一つは「仏教とは何か」についてのかれの見解であり、もう一つは如来蔵思想についてのかれの見解です。
わたしの仏教研究は、初期仏教の経典(いわゆる、パーリ経典)とナーガールジュナの主要著書にほぼ限られていますので、その観点から意見を述べることになりますが、まず、「仏教とは何か」、何をもって仏教の基本的な思想とするか、についてのかれの見解に関して言えば、その大筋にはほぼ全面的に同意します。すなわち、仏教のもっとも本質的な思想は縁起の思想であるということ、また、他の宗教や思想と比べて、仏教を最も特徴づけている思想は、その縁起の思想と深く関わっている無我の思想である、という点です。もちろん、縁起思想の解釈や無我の思想の解釈において細かいところでは異なる意見をわたしは持っていますが、縁起の思想や無我の思想を否定する思想は「仏教ではない」とするかれの批判の基本構造は、まったく正当なものであると思います。
つぎに、如来蔵思想についてですが、もし、かれのいうように、如来蔵思想とは、「心臓(蔵)に住する如来(アートマン)」を信じる思想ということであるなら、当然、非仏教として批判されねばならないでしょう。しかし、如来蔵は、かれの言うように、ほんとうに一義的にそのような意味に決定できるのかでしょうか。その点に疑問が残ります。
残念ながら、如来蔵思想のような後代に生まれた思想はわたしの興味分野から外れますので、如来蔵思想そのものについてはわたしは何も語れないのですが、如来蔵の意味を「心臓に住するアートマン」だけと結論するかれのその論拠は少しもの足りない気がします。多少性急で強引なところもあるようです。たとえば、
空海(774〜835)は、『性霊集』七で、真言大我、本住心蓮と述べているが、ここで「心蓮」とは、シャンカラが用いる“hrdaya-pundarika”という語の訳語とさえ考えることが可能なのである。従って、この文章は実は、“アートマンは元来、心臓(心蓮華 hrdayapundarika)の中にある”と説くものに他ならないのである。(『禅思想の批判的研究』、252〜253頁)
と言った具合です。「心蓮」が「“hrdaya-pundarika”という語の訳語とさえ考えることが可能」であるという前提から、「実は、“アートマンは元来、心臓(心蓮華 hrdayapundarika)の中にある”と説くものに他ならない」という結論は、論理的に帰結しません。せいぜい、そのように「説かれている可能性がある」ということでしょう。空海は果たしてアートマン論を説いたのか、このような重大な問いに答えるためには、表現の類似性や語源的配慮だけでなく、空海の思想の総合的な研究が必要だろうと思います。
同じことは、かれの臨済批判にもあてはまると思います。臨済の「赤肉団上、有一無位真人」という表現の中の「無位真人」はアートマンである、というのがかれの批判なのですが、これを論証するためのかれの方法もやはり、表現の類似性や語源的研究に拠るものです。
第三の理由は、「赤肉団上、有一無位真人」という表現自体に秘められており、それを述べることが、実は本章の大きなテーマでもあるのである。では、それは何のことであるか。それは、インドのアートマン論においては、“アートマンは心臓にある”と考えられるという重要な事実なのである。このことをわたしが明確に知り得たのは、金沢篤氏の「シャンカラとhrdaya」という論文のおかげであった。その論文を読了すれば、「赤肉団上、有一無位真人」の語に秘められている謎は、すべて解けるとさえ言える・・・(同上、248頁)
この金沢氏の論文というのは、べつに臨済に関して何か述べているのではなく、インドのアートマン論に関する論文らしいのですが、どうしてそれを読めば臨済の「赤肉団上、有一無位真人」という表現に「秘められている謎は、すべて解ける」と結論されているかといえば、結局、松本氏は表現の類似性および語源に根拠をおいておられるからです。
時代も場所も離れている二つの思想を同一視するのは、一見無謀に見えますが、この二つの歴史的関係(語源)をたどるためのかれの論究はたいへんな労作で、すべての臨済研究者必読の論文だと思いますが、空海の場合と同じく、臨済をアートマン主義者と決めつけるには、それだけでは結論に強引さを感じざるを得ません。やはり、臨済思想の総合的な分析が必要だろうと思います。
しかし、このような欠点にもかかわらず、松本氏の指摘はあまりにも重要であるとわたしは考えています。なぜなら、たとえ、「如来蔵思想はアートマン説である」という主張が決定的に論証されなくても、容易にアートマン説と解釈できる如来蔵思想(あるいは日本仏教そのもの)の危うさを、これほど明瞭に示されたことはいままでなかったと思われるからです。
わたし自身は、別の観点から、臨済思想に疑問を持っています。それはいわゆる京都学派とよばれる鈴木大拙や西田幾多郎およびその系統の思想に対する疑問です。(「作者より渡辺 充さんへ 98年2月14日」、「作者より森 修司さんへ 00年2月16日」、などを参照してください)どうしてこんなものが日本では仏教ということになってしまったのか。大拙や西田の罪は多大であるとわたしは思っています。そういう思想がまるで仏教であるかのごとく宣伝したのが彼らやその後継者たちだからです。
とくに西田の思想は明らかに非仏教、アートマン説です。
実在の根底には精神的原理があって、この原理が即ち神である。インド宗教の根本義であるようにアートマンとブラフマンとは同一である。(『善の研究』、岩波文庫121頁)
西田の親友であった大拙はさすがにそこまで露骨にアートマン説を唱えてはいませんが、「自己と世界が同一であり、それを個別に分別して捉えるのが迷いである」、といったことを大拙も信じていたことを示唆する言明はたくさんあります。大拙も西田も臨済禅をその根本にもっていることはよく知られていますから、このような考え方の根本に臨済思想があることが予想されるわけです。
輪廻する永遠の魂(アートマン)を説く「幸福の科学」や「オウム真理教」やそれに類するさまざまな偽仏教はもとより、臨済思想の批判的研究は日本仏教にとって重大な課題です。松本氏の如来蔵思想批判はその意味でも高く評価されるべきだと思います。