こんにちは、水野です。『仏教の教えによって悲苦を征服することは本当に可能か(2)』にご回答いただき、どうもありがとうございました。

同じ「法則」に関する認識でも、その認識程度には個人差というものがあります。・・・何がその差を生んでいるかと言えば、それは公式そのものではなく、公式が含意する事柄に関する個人の経験(実験や観察)や知識の違いです。・・・ひとつの物理公式が地球全体を破壊しうる兵器を作り出す行為に導くことが、個人によっては、ありうるように、「縁起の法則」が古い自我観念を崩壊させるという事態も、個人によっては、ありうるかもしれないのです。
確かに、その通りですよね。縁起の法則を「その程度の認識」などと軽く考えてしまうのは、わたしの認識がまだ浅いからなのかもしれません。理解を深めてからでなければ何とも言えない、ということで納得しました。

ところで、腑に落ちないのが、「ある仏教徒の『死後の世界』観」です。

確かに、「死んでから結ぶ果などというものは、どうでもよいではないか」というのは「利己主義な考え」だ、と思います。「けだしわたしどもには、みんな子供もあるし、隣人もあるし、同胞というものもある」わけで、「わがなきあとには、そんなものはどうなってもよい」などと言うつもりは、わたしもありません。

だからといって、「劫初より造りいとなむ殿堂に、われも黄金の釘一つうつ」という意識が正しいとも思えないのです。

与謝野晶子が歌を詠むのが好きならそうすればいいし、嫌いになったらやめればいい。ただそれだけの話であって、「劫初より造りいとなむ殿堂に、われも黄金の釘一つうつ」などという大それた意識で歌を詠む必要はない、と思います。

『聖書の間違い』や『キリスト教・聖書に関する来訪者の声』というページを通して、「結局のところ、自分自身のための答えを求めている」(97年5月31日「有機霊感説」ただのひとさんへの返信)、という佐倉さんの姿勢に共感します。もし、佐倉さんがそれらの執筆活動を、「わがなきのちに結ぶであろう果」を意識してやっている、なんておっしゃられたら読者は興ざめだろう、と思います。

結局、自分がやりたいと思うことをやっていけばいいのではないでしょうか。それは決して、「死んでから結ぶ果などというものは、どうでもよい」、という意味ではありません。自分の行なったことが後世の役に立てば、それはすばらしいことです。でも、それはあくまでもおまけであって、目的ではなく、「もっとも心しなければなるまい」などと強く意識するものでもないでしょう。「わがなきのちに結ぶであろう果」は、自分で意識して作り上げるものではなく、遺されたひとたちが自然に感じ取るものだ、と思います。

「生まれて、生きて、死んでいく」、人間にできることは、ただそれだけなのではないでしょうか。

またまた愚問ですみませんが、佐倉さんのご意見をお聞かせ願えれば光栄です。では失礼します。

与謝野晶子が歌を詠むのが好きならそうすればいいし、嫌いになったらやめればいい。ただそれだけの話であって、「劫初より造りいとなむ殿堂に、われも黄金の釘一つうつ」などという大それた意識で歌を詠む必要はない、と思います。

「縁起」のような哲学的言明だけでなく、エネルギーの法則のような物理法則でさえ、それが見る人に与えるインパクトの大きさやその内容は個人的な相違があるのですから、和歌のような芸術作品ならなおさらのことでしょう。与謝野晶子のこの歌に関する水野さんの解釈はわかりました。

わたしの解釈は、水野さんの解釈とは違っていて、2年前お便りを頂いた田中裕さんの解釈と同じです。すなわち、

与謝野晶子が歌っている「殿堂」というのは、死後日本文学史に自分の名前が残るだろうなどという意味ではなく、万葉集にはじまり王朝の和歌の伝統、蕪村の俳諧明治の短歌革新の歴史を一貫して流れている生命に自分も与っている喜びを歌ったものと思います。

田中裕さんより

人間の本質を<皮膚の内側に詰まっているもの>というふうに実体的に考えれば、そこからは、

「生まれて、生きて、死んでいく」、人間にできることは、ただそれだけ・・・

という人間観にもなるかもしれません。しかし、先人の架けた橋のゆえに、わたしたちは川を渡ることができ、わたしたちが借金を踏み倒して死ねば、残された人々は困ります。好むと好まざるとにかかわらず、一人の生は他の生と連なっていて、そこには無化することのできない関係が厳然として存在します。

和歌の伝統・歴史を担った先人なくして、与謝野晶子は「歌を詠むのが好きならそうすればいい」ことさえ不可能だったでしょう。おそらく、あるとき晶子は突然そのことに気づき、その感動をこの歌に託したのではないでしょうか。それをわたし流に解釈すれば、そのとき彼女は<皮膚の内側に詰まっているもの>という意味での自我(実体的自我)を越えた自分の姿(縁起的自我)を見たのです。