水野です。回答いただきまして、ありがとうございました。
わたしの考えがうまく伝わっていないようです。
好むと好まざるとにかかわらず、一人の生は他の生と連なっていて、そこには無化することのできない関係が厳然として存在します。わたしはこれについて疑問を述べているのではありません。和歌に限らず、なにごとも「伝統・歴史を担った先人なくして」はありえないこと、そして、そこに「縁起的自我」を見いだせることには、わたしも同感です。和歌の伝統・歴史を担った先人なくして、与謝野晶子は「歌を詠むのが好きならそうすればいい」ことさえ不可能だったでしょう。おそらく、あるとき晶子は突然そのことに気づき、その感動をこの歌に託したのではないでしょうか。それをわたし流に解釈すれば、そのとき彼女は<皮膚の内側に詰まっているもの>という意味での自我(実体的自我)を越えた自分の姿(縁起的自我)を見たのです。
わたしが疑問にしているのは、増谷文雄氏が言う、「わがなきのちに結ぶであろう果こそ、もっとも心しなければなるまい」という意識です。
「わがなきのちに結ぶであろう果」は、本当に、「もっとも心しなければなるまい」というほど、強く意識すべきものなのでしょうか。
わたしは、「わがなきのちに結ぶであろう果」などというものは、遺された人々が決めるものであって、自分自身が意識してもしかたのないものだ、と思います。
たとえば、ある芸術家の自由気ままな生き方のために迷惑をこうむり、不快に思う近親者がいる一方で、その芸術家の作品が多くのひとの感動を呼ぶ、なんてことがあります。同じ人間に対する評価でも、その良し悪しは、ひとによってまちまちです。そんな、あてにならないものを「もっとも心して」いたのでは、生きていけないでしょう。
結局のところ、ひとは、自分がこうありたいと願う生き方を実現するべく努力するだけで、充分なように思います。その生き方が死後どんな果を結ぶかは、自分のあずかり知るところではなく、遺された人々に任せておけばよいでしょう。その意味で、人間は、「生まれて、生きて、死ぬ」、それだけの存在だ、と述べたのです。
これ(原因)あるによりて、かれ(結果)あり これ(原因)なきによりて、かれ(結果)なし
という縁起の法則から考えても、そう言えるのではないでしょうか。
「わがなきのちに結ぶであろう果」という結果より、その結果を生み出す原因、つまり、「わがあるうちにどう生きるか」ということこそ、「もっとも心しなければ」ならないものだ、と思います。
以上です。佐倉さんのご意見をお聞かせ願えれば、幸甚です。では、失礼します。
(1)解釈の違い
わたしが疑問にしているのは、増谷文雄氏が言う、「わがなきのちに結ぶであろう果こそ、もっとも心しなければなるまい」という意識です。おっしゃる通りですが、増谷氏のいわれる、「わがなきのちに結ぶであろう果こそ、もっとも心しなければなるまい」というのは、「わがあるうちにどう生きるか」よりも、「わがなきのちに結ぶであろう果」の方を、「強く意識すべき」である、という意味で語られているのでしょうか。「わがなきのちに結ぶであろう果」は、本当に、「もっとも心しなければなるまい」というほど、強く意識すべきものなのでしょうか。
・・・[むしろ、]わがあるうちにどう生きるか」ということこそ、「もっとも心しなければ」ならないものだ、と思います。
確かに、この一文だけをコンテキストから取り出して読めば、「〜こそ〜もっとも」という形式の文は、文法的にはそういう解釈が正しいでしょう。しかし、コンテキスト全体の話から見れば、増谷氏が比較しておられるのは、「わがあるうち」と「わがなきのち」ではなく、むしろ、他との関係性を考慮に入れない<実体的自己解釈>と他との関係性を考慮に入れる<縁起的自己解釈>なのではないでしょうか。このことは、わたしの引用している部分だけではあきらかではないかもしれませんが、わたしはそのように解釈しています。
たとえば、このすぐあとに続くところで、氏は、ひとりの人間の全存在が三世因果の一環としてあるということを語られています。
しかるに、それを裏返していうならば、わたしども自身が、そのような業を因として結ぶ果をうけてここにあるのである。わたしの全存在がそうなのである。なによりもまず、父母があってわたしがここにあるのであり、また、この国があってこのわたしがあるのであり、さらに、この国の伝統があって、そのなかにこのわたしがはぐくまれたのである。つまり、わたしの全存在は、時をへだて、生をへだてて結べる果のいたせるところとなさねばならない。かくして、わたしどもは、好むと好まざるとにかかわらず、誰しもが、三世にわたる因果の連鎖の一環としてある。(76頁)
「三世」というのは仏教用語で「過去、現在、未来」のことです。著書の主題が「宿業」であるため、こういう話が出てくるのですが、要するに、氏が語ろうとしておられるのは、自己は他から絶縁し独立した存在ではなく、過去の先人の生がこのわたしの生と無関係ではなく、このわたしの生が未来の生と無関係ではない、ということです。
「わがあるうちにどう生きるか」よりも、「わがなきのちに結ぶであろう果」の方を、もっと「強く意識すべき」である、などということを主張されているのではないと思います。
(2)価値と評価者
たとえば、ある芸術家の自由気ままな生き方のために迷惑をこうむり、不快に思う近親者がいる一方で、その芸術家の作品が多くのひとの感動を呼ぶ、なんてことがあります。同じ人間に対する評価でも、その良し悪しは、ひとによってまちまちです。そんな、あてにならないものを「もっとも心して」いたのでは、生きていけないでしょう。
自分の芸術がいつかは認められるであろうと信じているからこそ、邪魔者扱いされても、迷惑がられても、きちがい扱いされても、今誰に認められなくても、芸術家は生きていくことができるのであり、自分の芸術がいつかは認められるだろうと信じることができなくなった芸術家は、芸術家としては生きてはいけないだろうと思います。
芸術であろうと、仕事であろうと、あるいは人生そのものであろうと、モノの価値は価値評価者があって始めて存在するものです。商品にどんなに資材と労働力をつぎ込もうが、それを欲しいと思う人がいないかぎり、商品にならない(無価値である)のと同じことです。価値は、モノそのものの内側に実体的に存在しているのではなく、モノと評価者との相互関係のことだからです。
創るとは価値を創ることであって、価値を創っている(評価されるであろう)と思わない芸術家が、芸術家として生きていけるとは、とても考えられません。