佐倉様、今日は。

私のわかりにくい議論におつきあい下さいまして有り難う御座います。論点が不明瞭な書き方であるにもかかわらず佐倉様が的確に問題点を浮き彫りにしていただいたことに感謝いたします。

執着を離れなさいというブッダの教えは、わたしたちが非存在と化することではなく、「我有り」「わがもの」という誤った妄念からわたしたちが目覚めることのようです。
なるほど。

ブッダの思想が執着を離れることを教えながら、ニヒリズムに堕することがないのは、無我の思想のゆえであったと考えられます。
これは、所有していつつも執着せず、とでも言った心境でしょうか。。。

人を幸福にさせているものこそが、実は、人を不幸にさせる当のものでもある。人間の執著のもつ問題をこれほど端的に語った言葉をわたしは知りません。

全く仰るとおりです。必然的にそれが真理なのであるからそれについてどうこう考えても仕方がないわけですね。毒の種類を気にするに等しいと。何が真理かと言うこととその真理が好きか嫌いかは別のことである。。。私は、きっとこの辺が気になるのですね。。。

「どうやったら苦しみから抜け出せるか」という問いだけが、問題になるのではないかと思います。
そう言う意味では、現実主義ですね。それ以上の形而上学的な問題は了久すと言うことなのですね。人によっては、畢竟出家しないと抜け出せない場合もある。。しかし、みんな出家してしまったらどうしようと言うことまでは議論しても仕方がないことと。。。。だとしたら、私はむしろ、日常生活に生き生きとした生を見いだそうとした中国禅の伝統に惹かれるようです。

佐倉様ご指摘のように、私はいわゆる京都学派の思想に大変共感を覚えているも のです。

もし存在の姿が「自他不二」の一元的世界であるなら、そこでは関係性(縁起)が否定されてしまいます。したがって、一元論的な禅の仏教理解は間違っていることになるでしょう
と別のメールのお返事で語っておられましたが、自他不二がすなわち縁起の否定というのは早計であるように思います。

縁起によって集合散開を繰り返す存在であるからこそ、我がないからこそ我と彼の区別もない(自他不二)とは解釈できませんか?「自他不二すなわち共通の本体を想定している」ではなく、自も他も須く空であるならば、自=空=他のように発想すると。全ての存在が相互関係によって規定されるならば逆に自らを規定する関係性が須く自らであるという発想も自然であるように思います。さらに、彼らの思想では、この空の思想にとらわれることすらも「金の鎖」と言って否定しますから。。。。やはり本性はないんだと。

それは、アートマン思想とははっきり違います。そもそも、全ての存在のあり方が縁起であると観察することも「縁起という一元論」と見ることも出来ます。ある意味で、一元論的思考を仮にでも持ってこないと思考も観察も出来ません。臨済和尚の言う「一無位の真人」は、そう言う発想が根底にあり、おそらく万物合一の絶対存在を想定した言葉ではないと思うのですが。。。。。また、「自他不二」の観念はおそらく曹洞宗の方もあるようで、京都学派の一握りの人間が主張していると言うことでもないように思います。

いずれにせよ、私はこれらのことに関してはまだまだ思考中であり、はっきりとした論拠や論理を示せません。屁理屈のそしりを受けることを気にしなければいかようにでも物は言い様ですが、そのような発展的でない議論は無意味ですから厳に慎みます。。佐倉様も、どの思想が正しいか議論する気はない、仏陀がどのような思想を語ったかという歴史的なことを問題にしている、とありますね。全く同感いたします。

そう言う歴史的観点からは佐倉様がご指摘されるように、禅宗というのは初期仏教から大きく変容したものであるのでしょう。その変容は、佐倉様ご指摘のように初期の仏教と同じ思想と言い切れないほどのものであるかも知れません。禅自らそのことは分かっているはずです。教外別伝、不立文字という言葉は、その辺の議論をするつもりはない、と明言しているものと私は見ます。だから、単純に信じるか信じないかですよね。釈尊が確かに禅的な思想を伝えた、と思う一派があってもまぁいいのではないかと思います。ただそのことを持って正当な仏教であると主張するのは間違いであるのでしょう。

仏教原典との関係でいろいろ批判があったりすることをふまえた上でも、やはり私が仏教原典より禅的なものに魅力を感じるのは、おそらく「生活の中の禅」と言うことが明確に打ち出されているところによるのでしょう。初期仏典では、どうしても出家への道がつよく見えると言うことに引っかかりを感じます。また、様々な因縁話で語られる輪廻転生の話や悪魔や神を「対機説法」と解釈しないと私が一つの拠り所にしている科学的考察とぶつかります。そう言う意味で、徹底して現実趣向である中国禅の態度に共感を持ちます。

西田幾多郎先生の語る純粋経験にしても、神経科学的にはありそうなことだと私は思っていますし、「思考の存在は言語の存在を必ずしも必要とする」ということはそれこそ根拠がないです。。まぁ、何を「思考」と定義するかによりますが。いずれにせよ、こういう議論は「客観的証拠」がないと水掛け論になりますし、思想や考え方に客観なんてあるはずはないので、それぞれがそれぞれの考えでいいんでしょうね。。。

初期仏典も本当に仏陀の言葉なのかと疑い出せばきりがありませんし、探せば矛盾した記述があちこちにあることも、いろいろな方がご指摘しているとおりです。尊いのは、その中で自分が信じる体系を作りだし、自分の内部できっちりと矛盾なく納得してそれを人生に活かすことだと思います。そう言う意味で、私は佐倉様の一貫した思想体系に敬服いたしますし、こういう考え方もあるのだな、ととても参考になりました。

佐倉様と議論を交えられた御陰で、初期の仏教について佐倉様のような考え方があることを知り、それに対して考えることで自分がどういう思想を求めているかはっきりしてきました。こういう発展的な議論は嬉しいものです。有り難う御座いました。

これからも興味深い御説を発表し続けてください。。また拝読させていただきたいと思います。

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翠壁楼主人 工藤 卓
E-mail: skudoh@fa2.so-net.ne.jp
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【「史的ブッダ」に迫る一つの方法論】

初期仏典も本当に仏陀の言葉なのかと疑い出せばきりがありませんし、探せば矛盾した記述があちこちにあることも、いろいろな方がご指摘しているとおりです。尊いのは、その中で自分が信じる体系を作りだし、自分の内部できっちりと矛盾なく納得してそれを人生に活かすことだと思います。そう言う意味で、私は佐倉様の一貫した思想体系に敬服いたします・・・
歴史的なブッダがなにを教えたのかを絶対的な確実さで知ることはもちろん不可能です。だからといって、なんらの歴史的な根拠もなしに、自分勝手な考えや自分勝手な悟りにすぎないものを、「これがブッダの思想だ、悟りだ」と主張するわけにもいきません。そこで、単なる自分の思想ではなく、「仏教」を語るなら、不十分とは言え、なにを根拠にブッダの思想とするのか、その根拠が問題になると思います。

わたしは、もともと、キリスト教の世界にながくいましたので、キリスト教の「史的イエス」(historical jesus)に迫るさまざまな試みを見ているのですが、現代の仏教学の研究もそのキリスト教神学の文献学的方法に影響を受けているようです。しかし、「史的イエス」に迫る方法と「史的ブッダ」(historical Buddha)に迫る方法に関して、わたしはひとつの興味深い違いに注目しました。それは、イエスは短命だったが、ブッダは長生きしたという事実です。

イエスは宗教活動を始めてわずか3年で突然死刑によって殺されます。しかし、ブッダは、80歳でなくなるまで、実に、40年間以上の宗教活動をしています。この事実から導きだされる一つの仮説は、ブッダは自分自身の思想を何度も何度もくり返して説明する機会を持っていた、という想定です。もし、この仮説が合理的な想定であるとすると -- わたしはかなり安全な想定だと思いますが -- ブッダの思想にあらわれる重要な概念(「縁起」「中道」「無我」「無記」・・・)のいくつかは、ブッダの生きている間に、ある程度洗練されたものとなっていたと考えるべきだと思います。そうだとすると、それらの概念の間に矛盾のない一貫した解釈を施すこと、概念間の関係を合理的に理解すること、それがブッダの思想に迫ることになると考えられるわけです。しかも、そのような方法(相互関係を理解すること)そのものが、きわめて仏教的(縁起的)でもあるというわけです。


【出家について】

初期仏典では、どうしても出家への道がつよく見えると言うことに引っかかりを感じます。また、様々な因縁話で語られる輪廻転生の話や悪魔や神を「対機説法」と解釈しないと私が一つの拠り所にしている科学的考察とぶつかります。
「輪廻転生の話や悪魔や神」の話に関しては、前回すでにわたしの意見(「インドの土着文化の垢」)を述べましたので、ここでは出家について簡単にわたしの考えを述べます。

初期仏典はもちろんそのほとんどが出家僧によって言い伝えられてきたものですから、「初期仏典では、どうしても出家への道がつよく見える」のは当然といえるでしょう。仏典は基本的に出家者が出家を勧まし、同志の出家者を応援するための本です。そのうえ、出家という考え方も、やはり、仏教独自の考え方ではなく、輪廻の世界から涅槃の世界へ至るための方法という「インドの土着文化の垢」でもあります。

それだけでなく、ブッダの基本的な思想の中に、出家を必要不可欠とするものは見当たりません。だから、『維摩経』のように、どんな著名な出家者よりも、在家者ヴィマラキールティの方が優れていることを示す仏典も出てくることにもなるわけです。したがって、初期仏典は、出家者の偏見やインドの土着文化の偏見を差し引いて、読むべきだろうと思います。

出家と在家の間の溝をほぼ完全になくしたのは、インドの大乗仏教でもなく、中国禅でもなく、日本の浄土宗・浄土真宗でしょう。この点において、日本仏教(とくに親鸞)のはたした歴史的役割は大きいと思います。僧侶が妻子を持つことを公に認められているのは、いまでも、日本仏教だけではないでしょうか。そのため、日本仏教は堕落しているなどとも批判されるわけですが、出家と在家の間の溝をほぼ完全になくした日本仏教の役割は大きいを思っています。

これには、親鸞がもっとも尊敬していた聖徳太子(十七条憲法)の「人間皆凡夫」の思想の大きな影響があるのだろうとわたしは想像しています。

人は皆な賢愚合わせ持つ凡夫にすぎない。(十七条憲法、第十条)

問うて曰く。破壊の僧、愚痴の僧を供養しても、功徳になるものであろうか。
答えて曰く。末法の世においては、破壊の僧、愚痴の僧を、仏のようにたっとぶべきである。この御つかいによくよく申しておきましたから、お聞きください。(法然、『百四十五条問答』)

自分は悪い人間であるから、如来のお迎えを受けられるはずはないなどと、思ってはならない。凡夫はもともと煩悩をそなえているのだから、悪いに決まっていると思うがよろしい。(親鸞、『末燈鈔』)

聖徳太子(十七条憲法)や法然や親鸞のおかげでしょうか、日本人はむかしから出家者を「聖人」と見ないで「凡夫」と見ることができ、また、それにもかかわらず、というより、それゆえにこそ、尊敬とともに親しみを感じることが出きるのでしょう。良寛や一休などの人気もそのことを裏付けているように思えます。

これはもちろんブッダの思想ではなく「日本文化の垢」なのですが、ブッダ自身も洞察することのなかった、新しい洞察とも見ることができます。人の心の悪について、ソクラテスの<無知の知>に相当する洞察が、日本の仏教の祖たちの洞察にはあるのではないでしょうか。ブッダはまだ人間が悪を克服することが出きると考えている(だから仏教にも出家が存在した)ようですが、日本仏教の祖たちはそれが迷い(無理)であることに気がついてしまったのではないでしょうか。そんなことも考えたりします。


【自他不二について】

自他不二がすなわち縁起の否定というのは早計であるように思います。縁起によって集合散開を繰り返す存在であるからこそ、我がないからこそ我と彼の区別もない(自他不二)とは解釈できませんか?「自他不二すなわち共通の本体を想定している」ではなく・・・
たいへん好意的な解釈だと思います。簡単に言えば、区別がないことを本来(真)の姿とし、区別することを迷いとするのが、京都学派の基本的な主張ではないでしょうか。

しかし、区別がなければ、関係はありえないし、区別されたものが自立独立していても、やはり関係は成立しません。そのどちらでもない有り様を、仏教は「縁起」という言葉で語っているのだとわたしは思います。

およそあるもの(A)があるもの(B)に縁って存在しているときには、それ(A)はそれ(B)と同一なのではない。また別異なのでもない。それゆえ、断滅でもなく、また常住でもない。

(ナーガールジュナ、『中論』18:10、三枝訳)