佐倉様、今日は。
ご回答有り難う御座います。
仰ることは理解できますし、私の勘違いでもないようです。ただ、おそらく私の指摘したポイントが伝わっていないように思います。前回のメールの前半で、「すくなくとも」などの議論をしたために混乱したようですね。私の議論の書き方が悪いのです。私がご指摘したかったポイントはむしろ後半、「命題の建て方」にあります。
佐倉様曰く「もしかしたら、工藤さんは、すでに中村氏の考察を読まれていたために、わたしの「P」と「Q」を、中村氏の「甲」と「乙」のようなものと、早合点されたのかもしれません。」早合点ではなく、中村氏のように「甲によって乙があり、また乙によって甲がある。」と言う言い方をするべきであるとご指摘したかったのです。
佐倉様曰く「わたしの分析はあくまでも命題論理学によるものであり、わたしの「P」(や「Q」)は、もちろん、命題論理学におけるProposition(命題)のことです。」良く認識しているつもりです。P=「無明によって」とR=「無明が生ずる」であってP=R=「無明」ではないと言うことなのです。私は、このように命題化するべきではないと言いたいのです。
佐倉様曰く
PやQの中身が「〜がある」であろうが「〜が生じる」であろうが、また、「〜」が示すものがいかなる名辞であろうと、そんなことには関係なく、すべて、仏典の縁起の言葉は、「PならばQ、PでなければQでない。」に集約できます。これは、PとQは命題であって、名辞ではないからです。そのとおりです。しかし、「Aがある」と「Aが生じる」は違う命題であると言いたいのです。例えば、「子供がある」と「子供が産まれる」を同じ命題Pとしていいんですか?私が指摘したいのはまさにその点なのですよ。
P=無明に「よる」こと=無明があることという命題の建て方がおかしくないですかと言うのです。
佐倉様が仰るように
PやQの中身が「〜がある」であろうが「〜が生じる」であろうが、また、「〜」が示すものがいかなる名辞であろうと、そんなことには関係なく、すべて、仏典の縁起の言葉は、「PならばQ」つまり
P=無明に「よる」こと=無明が「ある」こと=無明が「生じる」こと、としていいのならばおかしなことが導かれますと言う例を御紹介します。
まずは、たまたまおかしくない例です。
今問題としているのは「無明によって行があり、…無明の滅によって行の滅がある」から「行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。」が「論理構造から必然的に(対偶を使って)」導けるや否やということですから、論理構造が同じであればどのような言葉を持ってきても議論の趣旨は変わりません。
そこでわかりやすい例として「水によって氷があり・・・水の滅によって氷の滅がある」として佐倉様が行ったのと同じような命題化をしてみましょう。これが真であると仮定して「氷がなければ水も生じないし 水がなければ氷も生じない」を対偶から導いて矛盾がなければ佐倉様の理論展開が妥当であることになります。
「水に[よって]氷があり」の対偶は、佐倉様の手続きでは「氷が[なけれ]ば水もなく」なのでこの場合は「水によって氷があり・・・水の滅によって氷の滅がある」ー>「氷がなければ水もないし・・・水の滅によって氷の滅がある」=「氷がなければ水も生じないし 水がなければ氷も生じない」となります。確かに導けます。ところが、次の例ではどうでしょう。
「燃焼に[よって]煙があり、・・・燃焼の滅によって煙の滅がある」の場合です。佐倉様が行ったのと同じような命題化をしてみましょう。これが真であると仮定して対偶から導かれた「煙が[なければ]燃焼が生じないし、燃焼がなければ煙も生じない」が真ならば佐倉様の理論展開が妥当であることになります。
「燃焼に[よって]煙があり」を
燃焼が[ある]をP、煙があるをQ
^Pは燃焼がない ^Qは煙がない
故に対偶は「煙がなければ燃焼がない」
これは「煙がなければ燃焼が[生じない]」と同値でしょうか?佐倉様の仰るように「「〜がある」であろうが「〜が生じる」であろうが」PならばQといえるならば「煙がなければ燃焼がない」=^Qならば^P=「煙がなければ燃焼が[生じない]」ということになってしまいますから、その立場に立てばこれは同値と言わねばなりません。そして、「燃焼によって煙があり」という実際正しい内容(真)に対し、「煙がないと燃焼が生じない」というのは現実、正しいですか?おかしいですね。真から出発して対偶を取ったのに導かれたのは真ではないようです。
内容がおかしいからだと批判されるかも知れませんが、「論理構造から必然的に(対偶を使って)」導けるならば、内容に関わらないはず。出発の命題が真ならば対偶は必ず真です。それこそ、命題の中身がどんなことであろうとそのことは間違いないはずです。既にご指摘しましたように、この矛盾の原因は命題の建て方に飛躍があったことによるのです。水の例はたまたま水と氷が可逆的に生じうるから矛盾が生じなかったのです。
「生ずる」と言う原因結果を「あれば・・ある」という論理関係に無宣言的に置き換えるところに誤謬があるのです。つまり、命題「無明に[よって]行があり」と「無明[あれば]行あり」をともにP->Qと命題化して「無明に[よって]行があり」=「無明[あれば]行あり」としてしまったところに誤謬があります。
命題P=無明による=無明がある=無明が生ずるは間違いです。
P(無明による)≠Q(無明がある)≠R(無明が生ずる)はそれぞれ違う命題である。
これが私がもっとも主張したい点なのです。
命題P=無明による=無明がある=無明が生ずるが誤謬でないというならば「燃焼によって煙があり」から「煙がなければ燃焼が生じない」が論理的必然的に導かれるから「煙から燃焼が生じるとのだ」主張するに等しいです(燃焼と行、煙と無明を置き換えるだけで実感できるはずです)。
さらに、次の例を考察してみましょう。「母親によって赤子があり」から「赤子がなければ母親も生じないし」が導かれるでしょうか。佐倉様の命題化と同じ手続きで「よって」を「あれば」と同一視して「母親によって赤子があり」から対偶を取ってみましょう。「赤子なくば母親はない」が対偶と言うことになります。これと「赤子がなければ母親も生じない」は同値でしょうか?赤子から母親が生じるというのはどうも変です。むしろ「赤子なくば母親はない」は「赤子なくば(その子を産んだ)母親もいない」と解釈すべきで「赤子から母親が生じる」とはならないとは思いませんか?
ところが、此処でこういう考え方を導入します。つまり、「母親は、子供があることで始めて母親と定義される、「母親」と言う概念は「赤子(子供)という概念によって始めて生ずる」「母親から子供が産まれる」という「原因結果」ではなくて「母親は子供がいることによって母親であり、子供は親がいることによって相対的に子供と定義される」という一対一の「論理的定義関係」と考える。こう考えて初めて「赤子なくば母親はない」を字義通り「赤子から母親が生じる」と解釈しても矛盾が生じないことになる。
つまり、「母親によって赤子があり」から「赤子がなければ母親も生じないし」は赤子と母親の関係を「原因結果」ではなくて「論理的定義関係」と解釈したときに初めて対偶から導かれるのである。
以上の議論を「母親を行」、「赤子を無明」と置き換えていただければ、前回のメールで私がいわんとしていたことがご理解いただけるのではないかと思います。
【縁起表現の二つの型】
例えば、「子供がある」と「子供が産まれる」を同じ命題Pとしていいんですか?私が指摘したいのはまさにその点なのですよ。少し誤解されているようです。わたしは、「子供がある」と「子供が産まれる」、あるいは「〜がある」と「〜が生ずる」が同じ意味だと言っているわけではありません。前回も、説明しましたように、縁起文の表現は大きくわけて二種類あると考えられます。一つは「〜がある、〜がない」という表現を使ったもの。もう一つは「〜が生じる、〜が生じない」という表現を使ったものです。・・・「命題P=無明による=無明がある=無明が生ずる」は間違いです。 「P(無明による)≠Q(無明がある)≠R(無明が生ずる)」はそれぞれ違う命題である。 これが私がもっとも主張したい点なのです。
A型:〜があれば〜がある。〜がなければ〜がない。わたしが前回言おうとしたことは、A型もB型もどちらもB型:〜が生じれば〜が生じる。〜が生じないことによって〜が生じない。
縁起の論理式:PならばQ、^Qならば^Pという同じ論理式に翻訳できる、ということでした。A型の場合はP、Qそれぞれを「〜がある」とすることによって、B型の場合はP、Qそれぞれを「〜が生じる」とすることによって、同じ論理式に翻訳できるからです。
命題論理学は、命題と命題との関係の話ですから、その命題の内容は、その関係を表す論理式には何の影響も与えません。A型であろうがB型であろうが、すべての縁起文は、一つの論理式「PならばQ、^Qならば^P」で表現できるわけです。それは、命題論理式にとって命題のもつ意味は「真」か「偽」かということだけだからです。
問題が起きるとおっしゃられている「燃焼」と「煙」の例をとってみますと、
例1: PならばQ (命題「燃焼がある」が真ならば、命題「煙がある」は真である)となり、その対偶は
例2:^Qならば^P(命題「煙がある」が偽ならば、命題「燃焼がある」も偽である)この二つの例文は同値です。例1は、「もし燃焼があるならば、かならず煙もある」という主張です。その対偶例2は、「もし煙がないならば、燃焼はないと断言できる」ということですから、例1とまったく同じことになります。
今度は、「ある、ない」を「生じる、生じない」にします。そうしても、同じことです。
例3: PならばQ (命題「燃焼が生じる」が真ならば、命題「煙が生じる」は真である)となり、その対偶は
例4:^Qならば^P(命題「煙が生じる」が偽ならば、命題「燃焼が生じる」も偽である)ここで、例3は、「もし燃焼が生じるならば、煙も生じる」という主張です。その対偶例4は、「もし煙が生じないならば、燃焼も生じてないと断言できる」ということですから、例3とまったく同じことになります。
【対偶律と命題の中身】
「母親によって赤子があり」から「赤子がなければ母親も生じない」が導かれるでしょうか。佐倉様の命題化と同じ手続きで「よって」を「あれば」と同一視して「母親によって赤子があり」から対偶を取ってみましょう。「赤子なくば母親はない」が対偶と言うことになります。これと「赤子がなければ母親も生じない」は同値でしょうか?「燃焼」と「煙」の変わりに、「無明」と「行」をもってこようが、「母親」と「赤子」をもってこようが、論理式の値が変るわけではありません。また、命題の中身が「〜がある」であろうと、「〜が生じる」であろうと、対偶律は常に成立します。たとえば、「母親によって赤子があり」を、以下のどのように翻訳しても、対偶律は必ず成立します。
翻訳1:母親があれば、赤子がある。 (対偶1:赤子がなければ、母親はない) 翻訳2:母親が生じれば、赤子が生じる。(対偶2:赤子が生じなければ、母親が生じない) 翻訳3:母親があれば、赤子が生じる。 (対偶3:赤子が生じなければ、母親はない) 翻訳4:母親が生じれば、赤子がある。 (対偶4:赤子がなければ、母親は生じない) 翻訳5:赤子があれば、母親がある。 (対偶5:母親がなければ、赤子はない) 翻訳6:赤子が生じれば、母親が生じる。(対偶6:母親が生じなければ、赤子は生じない) 翻訳7:赤子があれば、母親が生じる。 (対偶7:母親が生じなければ、赤子はない) 翻訳8:赤子が生じれば、母親がある。 (対偶8:母親がなければ、赤子は生じない)もし、
「母親によって赤子があり」から対偶を取ってみましょう。「赤子なくば母親はない」が対偶と言うことになります。といわれていることにしたがって、「母親によって赤子があり」の対偶を「赤子なくば母親はない」とするならば、「母親によって赤子があり」を「母親があれば、赤子がある」と翻訳(1)していることになります。その場合、元の文「母親(があること)によって赤子があり」とその対偶文「赤子なくば母親はない」は、疑いもなく同値です。また、
「母親によって赤子があり」から「赤子がなければ母親も生じない」が導かれるでしょうか。と疑問に思われているようですが、これも、「母親によって赤子があり」を「母親が生じれば(女性が母親になれば)、赤子がある」と翻訳(4)する場合に、「赤子がなければ母親も生じない」は「母親が生じれば(女性が母親になれば)、赤子がある」の対偶として導出されます。そして、この二つも、もちろん、同値です。
他のどの翻訳を取ろうと、同じように、それぞれの翻訳はその対偶と同値となります。つまり、命題の中身が「〜がある」であろうと、「〜が生じる」であろうと、対偶律は常に成立します。対偶文は、それが内包する命題の内容にかかわりなく、その元の文と常に同値です。一方が真ならば他方は必ず真となり、一方が偽ならば他方は必ず偽となります。