昨年の、7月28日付で「その他の宗教」の欄に掲載していただいた牛です。 あれから、学研からでている宗教シリーズの本を買って(初心者向け)ゴータマ・ シッダールタの思想の一端に触れてみました。 初心者向けの本ですが、中村元博士の著書の引用が随所にでていました。

 ただ、訳者が何人もいるようで本当に釈迦自らが発言したかわからない箇所もあります。 たとえば、「自己を制御することは、実に難しいものである。自己こそ自己の主である。いかなる主がほかにあろうか。自己のよく制御されたとき、人は得難い主を得たのである。」(法句経)とあるらしいですが、佐倉様が知っている限りでよいですので原始仏典にこのような発言があるのかご教授くだされば幸いです。法句経の自己に対する考え方と、諸法無我の考えが私の中でしっくりこないのです。

 話は変わりますが私の家は、母方が禅宗、父方が浄土真宗の家庭です。 禅宗の方はともかく、浄土真宗の家庭の人たちも案外極楽浄土とか信じていない人がたくさんいます。 私が住んでいる地域だけかもしれませんが(九州南部)、うちの親父が死んだときも、死んだら人間どうなるかなどと法事の時に話題になったりしますが、「まだ帰ってきた人間はいないから、よっぽどよい所なのだろう。」と言うぐらいが関の山です。(そう言った人はよく法事に姿を見せますが、死んだら人間土になると思っているようです。)

 浄土真宗のお経の中に「朝の紅顔も夕べには白骨となれり、哀れと言うも愚かなり。」とのくだりがあります。

 阿弥陀仏に対する絶対帰依が浄土真宗の教えですので、釈迦の教えとは違うと思いますが、案外と釈迦の思想も衰えながらも残っているような気がします。 

私も、人間死んだらどうなるか子供の頃悩んだことがありました。現在思っていることは人間はみんな死ぬのだと言うことです。 そしてそう考えたところで、人生が空しいとは思わなくなりました。だからといって自分が幸福だとは思えませんが、ジンクスというか迷信から多少は解放された気がしています。

 このようなことをたまに冗談めかして友人たちと話すことがありますが、私の周りの人たちは、「人間いつかは死ぬのよ。死んだ後のことは解らん。」という人が60%を越えている気がします。 仏教の影響と言うよりも何かに絶対的に帰依することは日本人の伝統に馴染まないかもしれませんね。

 聖書も読んだことがありますが、所々本当にキリストがかっこいいと思えるところがあります。 ただ最後の磔の場面と復活の所だけは、私にとっていつまでもキリストは当時の新興宗教団体の教祖だったとの印象を強める結果となっております。

 最後に、このホームページは本当に勉強になります。

佐倉様のますますのご活躍を期待しております。

【自主自信】

「自己を制御することは、実に難しいものである。自己こそ自己の主である。いかなる主がほかにあろうか。自己のよく制御されたとき、人は得難い主を得たのである。」(法句経)とあるらしいですが・・・・ 原始仏典にこのような発言があるのかご教授くだされば幸いです。法句経の自己に対する考え方と、諸法無我の考えが私の中でしっくりこないのです。
これは原始仏典だけでなく、仏教全体を通じて教えられている仏教の根本的な性格です。他の翻訳も参照してみてください。
自分こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか。自己をよくととのえたならば、得がたき主を得る。

(中村元訳、『真理の言葉、感興の言葉』、岩波文庫、ダンマパダ 160)

おのれこそ おのれのよるべ
おのれを措きて 誰によるべぞ
よくととのえし おのれにこそ
まことえがたき よるべをぞ獲ん

(友松圓諦訳、『発句経』、講談社学術文庫、160)

ここでいう「自己」はわたしたちが常識的に語る自己(自分自身)のことで、仏教における救済は自己責任であることを述べたものです。つまり、仏教における救済は、神や仏へや他人に依存するのではなく、ただ自分自身の努力しだいである、ということです。このことを語る言葉は仏典には満ちあふれています。

みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。

(中村元訳、同上、ダンマパダ 379)

自らを燈明とし、自らを依処とし、他人を依処とせず、法を依処とし、他を依処とすることなくして修業せんと欲するものこそ、アーナンダよ、かかる者こそ、わが比丘たちの中において最高処にあるのである。

(増谷文雄訳、ディッガニカーヤ 16)

このことについて、増谷文雄氏は、つぎのように述べられています。
もしわたしどもが、なんじは仏教者として何を拠り所とするかと問われるならば、わたしどもは断固として「おのれこそおのれの主である。おのれこそおのれの依処である」と答えねばならぬ。それを今日のことばでもって言わば、仏教は無神論であるということもできる。われらにとって、拠るべきものは自己のほかになく、仰ぐべきものは法のほかにはない。われらの膝は神の前にもかがめらるべきではなく、われらの舌は他の何人をも「われらの主」として讃めたとうべきではない。・・・この自主自信(自らを主とし自らを信じる)の道の精神を、いま師[ブッダ]はその入滅を前にして、もっとも簡潔明確な垂訓としてのこしたのである。

(増谷文雄、『仏陀 その生涯と思想』、角川選書、288頁)

これは、「仏教は宗教ではない」というダライ・ラマ(チベット仏教)の言葉や、「仏教に信仰などない。信仰のようなあいまいなものではなく、確固とした知恵をもって生きよ」というアルボムッレ・スマナサーラ長老(パーリ仏教)の言葉などからもわかるように、仏教の諸派を問わず、現代でも生きています。ブッダはその最初の説法(梵天勧請経)で「信仰を捨てよ」と説き、最後の説法(大般涅槃経)で「自らを拠り所とせよ」と説いて、この精神を生涯貫いています。


【無我】

仏典において、

自分こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか。自己をよくととのえたならば、得がたき主を得る。(ダンマパダ 379、中村元訳)
というときのアートマンは、「神でもなく、父でもなく、妹でもなく、おれ!」という、わたしたちが「他者と引き比べての自分」を指して使うときの日常的に使われている「自己」です。それにくらべて、
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法無我、諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそが清らかな道である。(ダンマパダ 279、中村元訳)
というときに否定されている我(アートマン)はそれとは違います。もし、すべてが「我ならざるもの」なら、いま、わたしの前に立って喋っているあなたはあなたじゃないの、といった変なことになってしまうからです。ここで否定されているアートマンは別の意味のアートマンであることがわかります。

アートマンは語源的には「呼吸」を意味するものらしいのですが、それが転じて生命原理、自己、魂、などを意味するようになったと考えられています。簡単に言ってしまえば、「諸法無我」において語られているアートマンとはこの「魂」のことと言えます。(もちろん、それだけではありませんが。)

魂とは、手足でもなく、脳みそでもなく、体全体でもなく、それらとは別に、自己の本質として、肉体が死滅しても、その肉体から抜け出て、存在し続ける不滅の実体と考えられています。

あたかも青虫が草の葉の先端に達したとき、さらに一歩を踏み出して、身をそちらに引きせるように、このアートマンも、この身体を捨てて無知にした後、さらに一歩を踏み出して身をそちらに引き付けるのです。

(『ブリハッド・アーラヤヌカ・ウパニシャッド』、服部正明訳)

仏教の無我の思想が歴史上に登場した背後には、このようなバラモン教・ウパニシャッドの考え方があります。仏教には、いろいろな諸派がありますが、どの仏教学派も、このようなアートマンの考え方を決して肯定することはありませんでした。その一貫した仏教の姿勢が無我の思想なのです。(逆に言えば、有我説を説く宗教は仏教ではない、ということになります。)

魂説を否定しても自分の存在を否定するわけではない、ということがわかれば、「自主自信」で積極的に認められている自己と、諸法無我で否定されている「永遠不滅の魂」との違いは、明らかだと思われます。