こんにちは桑原です。
僕が書いた事は佐倉さんが言うように個人的なものです。佐倉さんが書いた仏陀の言葉を読んで仏陀の言葉を知ったので何が仏陀の思想であるか「歴史的文献的根拠」は全くありません。でも僕は断片だけでも読んで感じるところがあったのでその感じた事を根拠として書いたのです。それが今まで書いた事で、何故書いたかというと佐倉さんの書かれたものに開かれなかった一ページを感じたからです。その一ページを何とか少しでも開いて佐倉さんはどう思うかを聞きたかったのです。
そして結 局ぼくの「信念」は変わらないので、かえって佐倉さんの「信念」を感じました。僕の「信念」はどんな大問題も解決する、救いはある、ということで「その道はこれっきゃない」という一本道です。それが見つからなきゃ己が悪いです。ですから考えます。考えるという事は人体実験です。人体実験しかないと思っています。人体実験が道です。坊さんの修行は人体実験のつもりかと思いますけど、苦行よりは快楽がその道に近いようです。
キッカケは結構あっちっこちに転がっていて空の青と木々の緑がくっきりと浮かび上がっていたりしてフッと気分が良くなったり、待ってるバスが角を曲がって突然現れたりするとフッと気分が良くなったりします。
何回も書きましたけど自由を感じます。自由があるので真理は僕には必要ないです。自由は僕のものですから。そんな自由のずっと向こうに仏陀はいたのだと思っているのです。自分が自分であるところのものを削ぎ落としていきたいと思っています。だからって仏陀になりたいなんて思ってないです。何よりも自分にこだわってしまったので。
「何処かで言ってませんか」などと言ったのは僕の感じた開かれなかった一ページを佐倉さんの歴史的文献的知識で探す事が出来たらこれをまた明瞭に書いてくれるだろうと思ったのです。でも結果は僕の書いたようなことは仏陀の思想や悟りとは全く関係ないということになりました。
面白かったです。でも前回の返信はあっちこっち濡れ衣でしたよ。少し可笑しかった。熱心に読んでくれてありがとうございました。
わたしには、どうして、何の根拠もなく、自分の勝手な思い込み(欲望=自由)だけで、「これっきゃない」信念を持つことができるのか、とても不思議に思われますが、ともかく、渡りたいという欲望(自由)だけではなく、自分の欲望に従わない客観的な交通状況(真理)をもよくみきわめて、それから横断歩道を渡られるよう、桑原さんの身の安全を願っております。(^^)