こんにちは。
「お経を書いた最初の日本人」などとかいかぶられている者です。お世辞は喜びますが、かいかぶりは困ります。
小林仁さん(http://www.telnet.or.jp/‾hitoshi/)から、ジョージ・タナベ氏によるオリジナルな経典「ダイヤモンド・ヘッド経」が、同氏の「日本仏教の再生」(佼成出版社・仏教文化選書)の最後の部分に掲載されていると教えて頂きました。1990年出版ですが、まだ取り寄せることができました。半分しか読んでいないので、肝心のダイヤモンドには行き着いていませんが、ダイヤモンド経以前にすでに佐伯真光教授という方が、「大法輪」54巻7号に「仏説末法オカルト経」というのを書いておられるという記述もあります。ですから、わたしは最初の日本人ではありません。
ジョージ・タナベさんはハワイの日系人で、この本ももとは英語で書かれてるようです。アメリカ人らしい表現にに思わず笑ってしまった部分は、「新聞の俳句欄に投稿するように、新しい時代に適応する経典をどんどん生み出そう。そしてその評価は、読者である人々にまかせよう」という呼びかけです。これは、とても楽しい発想です。
タナベさんは、「仏教はこれまでもそれぞれの時代にふさわしい形に変容してきた」と、仏教が時々の時代に適応すべきことを主張されているようです。私は、私の思う仏教の核心を現代にふさわしい方便で書いてみようとしただけなので、仏教そのものの変革ではなく単に方便の更新を試みただけなのですが、この違いも、言葉の上だけと言うか、気持ちの置き方の違いというか、やっていることはほとんど同じなのかも知れません。
唐突かもしれませんが、タナベ氏の呼びかけから「部分の正確な理解の積み上げ」と「おおまかな全体理解」ということを考えました。私は文献学的素養が乏しいので、佐倉さんと論敵の方々との文献学的論争をわくわくしながらリングサイドから見ているばかりで、戦いに参加する能力はありません。だからこんな事を思うのかもしれませんが、学問的な論文形式による研究は、たとえば「ディグナーガにおける***の研究」とか「***における慈悲の根拠について」とか、部分の研究に走りがちだと感じます。「きっちりと部分を押さえ、それを積み上げていくことによってしか正しい理解は有り得ない」という事も事実でしょうし、現実に私は、そういう地道な研究の成果に寄生しているわけですが、仏教を学び始めた人には、仏教の教えを仮に全体として自覚的に捉えておくというステップがあったほうがいいのではないでしょうか?粘土像つくりのように細部は後回しにして仮に輪郭をまず大つかみして、修正しつつ、細部の精緻化を図っていく。 そして適当な段階ごとに、一歩離れて眺め、全体を見直していく。(なにか仏教を対象物のように書いてしまいましたが、比喩のアヤだと大目に見て下さい。)そして、そんなふうに自分の仏教理解の全体像を把握する方法として、自分の経典を作ってみるというのは、有効な方法の一つだと思いはじめました。
現代が、新しい大乗経典が続々と生み出される時代になれば、おもしろそうです。それとも、そんな事が実現すれば、カルトがはびこるだけでしょうか?
1999年3月17日 曽我逸郎
昨晩お送りしたメールでお話しした「日本仏教の再生」、今日読了しました。昨晩のメールでは、タナベさんについて肯定的すぎた<かいかぶりすぎた?>と感じますので、訂正します。
残念ながらダイヤモンド・ヘッド経は、仏教経典と呼べる内容ではないと感じました。
タナベさんが仏教を評価しておられる点は、仏教が時代にあわせて変化してきた(=節操なく迎合的だった)という点に尽きるようです。変化しても仏教である限り、なにか仏教としてのアイデンティティを想定しておられるはずと思っていましたが、際立ったものはなく、ただ「時代に合わせて変化してきたこと(=迎合的であったこと)」が仏教の仏教たるゆえんといわんばかりの論調です。 私には、タナベさんは、ただのハッピイな近代主義者に映りました。時代にふさわしい仏教を作るといいながら、その内容は、絶対的価値を相対化し、個人の自由・解放・主体性を主張し、進歩(=日常生活の利便化・快適化)を賛美しているだけに感じました。(厳しい意見かも知れませんが、これもタナベさんの期待しておられる読者の評価のひとつです。)
佐倉哲ホームページ読者の皆さん、「あたりまえ」にも厳しい評価を下さい。時代にふさわしく仏教と呼ぶに値する経典がたくさん生み出されたらいいなと思います。
以上、昨日の訂正でした。
1999年3月18日 曽我逸郎
ダイヤモンド経以前にすでに佐伯真光教授という方が、「大法輪」54巻7号に「仏説末法オカルト経」というのを書いておられるという記述もあります。ですから、わたしは最初の日本人ではありません。
そういうこともあろうかと思って、「もしかしたら・・・かもしれません」(99年2月17日)という逃れ道をつくっておきました。(^^)
しかし、「あたりまえ・・・」が日本における希少価値であることはあきらかで、わたしの評価は「おせじ」でも「買いかぶり」でもありません。ほんとうに、「時代にふさわしく仏教と呼ぶに値する経典がたくさん生み出されたら」いいと思います。仏教もたくさんのドグマを引きずっていますが、「筏のたとえ」にもあるように、ドグマ批判そのものがその本質のところにあるため、仏教は新しい経典を生むことが可能であり、むしろ、新しい経典を生み続けるのが仏教の本質であると思います。
仏教の教えを仮に全体として自覚的に捉えておくというステップがあったほうがいいのではないでしょうか?粘土像つくりのように細部は後回しにして仮に輪郭をまず大つかみして、修正しつつ、細部の精緻化を図っていく。・・・文の意味は単語の意味が分からなければ理解することができませんが、単語の意味も文の意味が分からねば理解できません。どちらが先とも言えないような関係です。解釈学の縁起関係(相依性)とでも言えるでしょうか。仏教の理解も、全体と部分の両方からの攻めが必用である、というのは正しいように思われます。