はじめまして、誠一です。佐倉さんのHPでありがたく勉強させていただいております。私は、親鸞聖人の思想が「空=無自性=縁起」の思想に適うと考えており、その考えを以下にまとめてみました。つきましては、佐倉さんのご意見・ご批判などをいただければ幸いです。よろしくお願いします。

はじめに、親鸞の思想を「教行信証」でみてみましょう。親鸞自身がつけた題目は「顕浄土真実教行証文類」であり、浄土の真実の教行証を顕わすの文類という意味です。教行信証は、教・行・信・証・真仏土・化身土の全六巻で構成されています。

【顕浄土真実教行証文類序】 (総序)
ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する恵日なり。しかればすなはち浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業、機あらはれて、釈迦、韋提をして安養をえらばしめたまへり。これすなはち、権化の仁、ひとしく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提をめぐまんとおぼしてなり。かるがゆえにしりぬ。円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳をなす正智、難信の金剛の信楽は、うたがひをのぞき証をえしむる真理なり、と。・・・

【顕浄土真実教行証文類一】 大無量寿経  (教巻大意)
つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向あり。ひとつには「往相」、ふたつには「還相」なり。往相の廻向について、真実の教行信証あり。それ真実の教をあかさば、すなはち「大無量寿経」これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵をひらきて、凡小をあはれみて、えらびて功徳の宝をせすることをいたす。釈迦、世に出興して道教を光闡して、群萌をすくひ、めぐむに真実の利をもてせんとおぼしてなり。ここをもて、如来の本願をときて経の宗致とす。すなはち仏の名号をもて経の体とするなり。

教巻は教行信証全体を、略して説いたものと考えることができます。

【顕浄土真実教行証文類二】 諸仏称名の願 (行巻大意)
つしんで往相の回向を案ずるに、大行有り、大信有り。大行といふは、すなはち無碍光如来のみなを称するなり。この行は、すなはちこれ、もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。かるがゆへに大行となづく。しかるに、この行は大悲の願(第十七願)よりいでたり。すなはちこれ、「諸仏称楊の願」となづけ、また「諸仏称名の願」となづく。また「諸仏咨嗟の願」となづく。また「往相回向の願」となづくべし。また「選択称名の願」となづくべきなり。

【顕浄土真実教行証文類二】 龍樹 ・ 一 (行巻相承の師釈)
「十住毘婆沙論」(入初地品)にいはく、あるひとのいはく、「般舟三昧および大悲を諸仏のいへとなづく。この二法よりもろもろの如来を生ず」。このなかに般舟三昧を父とす、また大悲を母とす。またつぎに般舟三昧はこれ父なり、無生法忍はこれ母なり。「助菩提」のなかにとくがごとし。「般舟三昧の父、大悲無生の母、一切のもろもろの如来、この二法より生ず」と。いへに過咎なければ家清浄なり。かるがゆへに「清浄」とは六波羅密・四功徳処なり。方便般若波羅密は善慧なり。般舟三昧・大悲・諸忍、この諸法清浄にして、とがあることなし。かるがゆへに「家清浄」となづく。・・・

行巻には七高僧などの伝承があります。七高僧とはインドの龍樹(ナーガルジュナ)・天親(浄土論)、中国の曇鸞・道綽・善導、日本の源信・源空(法然)のことです。

【顕浄土真実教行証文類序】 (別序)
それ、おもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心にしづみて浄土の真証を貶す。定散の自心にまどひて金剛の真信にくらし。ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。ひろく三経の光沢をかふりて、ことに一心の華文をひらく。しばらく疑問をいたしてつひに明証をいだす。まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言をはぢず。浄邦をねがふ徒衆、穢域をいとふ庶類、取捨をくはふといふとも、毀謗を生ずることなかれ、と。

【顕浄土真実教行証文類三】 至心信楽の願 (信巻大意)
つしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。この心すなはちこれ「念仏往生の願」(第十八願)よりいでたり。この大願を「選択本願」となづく、また「本願三心の願」となづく、また「至心信楽の願」となづく、また「往相信心の願」となづくべきなり。・・・

信巻以下はおもに、親鸞の己証となっております。

【顕浄土真実教行証文類四】 必至滅度の願 (証巻大意)
つしんで真実証をあらはさば、すなはちこれ、利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ「必至滅度の願」よりいでたり。また「証大涅槃の願」となづくるなり。しかるに、煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行をうれば、すなはちのときに大乗正定聚のかずにいるなり。正定聚に住するがゆへに、かならず滅度にいたる。かならず滅度にいたるは、すなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。

【顕浄土真実教行証文類五】 光明無量の願・寿命無量の願 (真仏土巻大意)
つしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち、大悲の誓願に酬報す。かるがゆへに、真の報仏土といふなり。すでにして願います、すなはち「光明・寿命の願」これなり。

【顕浄土真実教行証文類六】 至心発願の願・至心廻向の願 (化身土巻大意)
つつしんで化身土をあらはさば、仏といふは「無量寿仏観経」の説のごとし、真身観の仏これなり。土は、「観経」の浄土これなり。また「菩薩処胎経」等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また「大無量寿経」の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。しかるに濁世の群萠、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道をいでて、半満権実の法門にいるといへども、真なるものははなはだもてかたく、実なるものははなはだもてまれなり。偽なるものははなはだもておほく、虚なるものははなはだもてしげし。ここをもて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、もと誓願をおこしてあまねく所有海を化したまふ。すでにして悲願います。「修諸功徳の願」となづく、・・・また「至心発願の願」となづくべきなり。

次に、その領解を門徒の言葉にみてみましょう。

「われわれが一般に使用している数というものは、つまり、自然数であります。ところが、分数は、常識の数の観念からいえば、例外であります。ところが、世の中には数え切れるものだけがあるのではない。世間にも『割り切れない』という言葉がありますが、それを、今日の人は、みな『割り切っていこう』と考える。それは、いわゆる自然数でいこうということであります。けれども、割り切れない、というている世界は、要するに、分数の世界なのでしょう。その割り切れないものを、みな例外だと考えてしまうなら、これは、たまったものではありません。そこで、そうした例外をも、割り切れる数の世界へ入れようという考え方がある。それが、四捨五入という考え方である。つまり、あるところまでいけば四捨五入する。本当は割り切れないのだが、四捨五入という工作をほどこすことによって、ともかく割り切れる仲間へ入れるという考え方であります。ところが、それより次元の高いもの、たとえば実数というようなものを考え出してくると、その実数を本当に意味づけるものは、実は、その割り切れない数なのである。割り切れないものが数となってくるのである。だから、実数という思想は、おそらく、分数なしには成り立たないのでしょう。しかし、その実数という数は、自然数をも分数をも、包有しているわけであります。考え方によっては、割り切れる数のほうは、案外にも割り切れない分数の特殊の場合であることもいえるのであります。かえって、一般のほうに特殊がかかってきて、割り切れないのが普通の場合であって、割り切れるということは、むしろ特殊な場合であるということにもなるようであります。」

「昔の人の考えていた道徳ということは、そういうものではない。割り切れないには違いないが、損をしてもよいという立場があった。たとえ、いま割り切れないとしても、本当の得ということになると、身代をまるつぶしにしても、子供が育ってくれればそれでよいというところにある。そうすると、割り切れないということが、実は、本当の得であるともいえる。ところが、そうして育てた子供が、交通事故で死んでしまった。今度は、ひらきがつかない、ということになる。つまり、無理数の立場が生じてくる。そのひらきのつかなくなったところへ、働きかけてくる世界があらわれる。それが、実数の世界、つまり宗教の世界であるというふうに考えることもできましょう。」

「なおらない病人に、なおってほしいというなら、それは無理といわねばならない。少なくとも医者の立場からいえば、その病人になおってほしいということは、無理だといわねばならない。けれども、本当にその子を愛する親の立場からいえば、無理ではない。もうなおらないとあきらめよ、という方が無理なのである。だから、言葉としては無理とみえることの中に、まことがある。だから、達者になってくれよと表現した言葉の中に、親の深い愛というものがある。」

「亡き親の気持にすれば、そういうことを嘆くな、私が悪かったんだといいたいに違いない。そのお父さんの心がわかったならば、もうそういうことを思わないで、その父親と自分と、本当に一つになる境地を求めるべきではありませんか。」

「如来と凡夫とを実体的に対立せしめて、その対応を思想するものは相対的他力というべきであろうか。本願力廻向の他力はそれではない。大悲の本願は無我であり、我等はその願心を聞きて疑いなき信を得るのである。それ故に信心もまた無我である。そこに如来と凡夫と対応しつつ、しかもその間に円融無碍なるものがあるのである。」

「本願のいわれということも、そこに如来と衆生との因縁が感ぜられるということであろう。そして、その因縁は願言の他に求めることはできない。いわれとは言われであるからである。したがって、如来の本願といっても、経説の願文を聞思するの他ないのであろう。如来の本願は思想として知識し得るものではない。ただ大悲の心音として願言を聞いてのみ身に感じられるものである。」

「『阿弥陀いずこにありや』と問うならば、われわれは阿弥陀の徳を、念仏のうえにみることができる。その意味において、浄土とは、念仏の世界であるというてもいいのでしょう。」

「本当の親であるためには、親であろうとする願いをもたなくてはならない。その願いをもたない限り親ではない。したがって、阿弥陀が阿弥陀であるためには、阿弥陀であろうとすることでなくてはならない。」

「人間生活の帰依とは何か。帰依ということは、死の帰するところ、生の依るところ、ということであります。人間生活が終局において、どこへ落ちつかねばならないかという、その方向性を『往相』と呼ぶのであります。そして、その人間生活の終局となるべきものが、そのまま、また人間生活の依って立つところとなる。」

「しかし、やがてはみな浄土において、一如のさとりをひらく身であるという、その終局を生の始めとして、ひるがえって人生にかえるときに、その身がどうしてこう争うたり憎んだりしなくてはならないのであろうかと、今度は頭が下がるわけであります。だから、『還相』のすがたこそ、本当に低姿勢なのであって、その低姿勢のところに、おのずからなる道徳というものがある。」

「どの行をとって、往生の行と定めてみても、必ずそれを行うことのできないものが出てくる。結局、どの行を定めても、必ず例外が出てくるのであります。例外なしに、どんなものでも行じ易いものといえば、ただ拝む心であるところの、念仏以外には、あってみようがない。」

「死の帰するところとして、その世界は必ず一如平等の世界でなくてはならない。」「一如無為に帰するところの道でないならば、人間生活は意味のないものである。」「われわれの意識よりもはるかに深い、人間生活の深い要求の世界である。」「今生の自分としては、ただこれだけしかできないのであり、ただこれだけをやらしてもらうのであるという、『分限の生活』というものが語られている。」「無限というものを、有限のうえにあらわさねばならない。」「本願というものは主体がない。阿弥陀の本願ということは、本願の阿弥陀ということである。」「真実そのものはなければならぬのであるけれども、しかし、われらにはない。しかし、与えられればあるというかたちになるのであろう。」「人間と生まれた悲しみを経験したものだけが、本願を信じ念仏をもうすことによって、人間と生まれた大いなる喜びを感ずるものである。」

こうしてみると「本願=念仏=阿弥陀仏=浄土=死=往生=光明=智恵=慈悲=大悲=無限=人間生活の深い要求の世界等々」の等式があるとしてもよいでしょう。つまりは、恒常普遍の自性的な浄土があるのではなく、死そのものが浄土であるというわけです。

縁起で語るならば、「生があれば死がある」、「有限があれば無限がある」、「悲しみがあれば喜びがある」、「無明があれば光明がある」、「凡夫があれば阿弥陀仏がある」などとなり、相依関係にあるといえます。無自性の本願「苦しみなければ本願もない」でもよいのではないでしょうか。ゆえに、親鸞聖人の思想は「空=無自性=縁起」の思想に適うと考えるわけです。

ただ、原始仏教が生死に執着しない教えを説くのに対し、浄土教では死の帰するところ、生の依るところというように、生死をパトス(感性)により感じていく点で違うようです。それでも「生がなければ死もない」に対し、論理的に同値の「死があれば生もある」といいかえているわけで、仏教であるに違いはありません。

浄土教の伝統としては、1仏説「大無量寿経」、2龍樹(ナーガルジュナ)「十住毘婆沙論」、3天親「浄土論」・・・9親鸞「教行信証」となります。まあ、「大無量寿経」が仏陀によって説かれたものかどうかは怪しいのですが、実はそんなことはある意味どうでもよいのではないでしょうか。それというのも本願は人間生活の深い要求の世界だからです。

人間生活の深い要求の世界ならば、本願はでっち上げになるでしょう。別に浄土教をこき下ろしてるわけではありません。でっちあげとわかった上で本願に生きるのならば、かえってそれは、感性を伴いながら執着を和らげる大いなる智恵といえるからです。それはまた、無我だ空だといいながら、日常的には互いに個人名を呼びあっているのと同じレベルということでしょう。

つまり、空観で論理的には無明がなくなったとしても、愛憎の感情ばかりはどうしようもない凡夫であってみれば、「凡夫」を大悲する「本願」を念じることで心のバランスをはかる、これもまた、片方に偏しない「中道」といえます。


誠一です。言葉足らずな気がしますので、以下をつけ加えてください。

本願をでっちあげといいましたが、先の数学の譬え話のように、人間感情(=人徳ではない)の次元の高さを極めれば、その因縁から自ずとあらわれてくる本願の世界ともいえましょう。

本願は人間生活(愛憎)と死(寂滅)の相依関係を深く感じていく世界です。また、本願は「生に伴う感情」と「死に伴う感情」を止揚したものの如くです。論理的には同値ながら、龍樹の「もしQでなければPでない」は智恵を、本願の「もしPならばQである」は慈悲をあらわしやすいようです。しからば、「智恵の慈悲」としての本願により、仏教の帰結となりうるものがあります。化身土巻における「三願転入」というのもこのことなのでしょう。幸いにも龍樹(ナーガルジュナ)は真宗七高僧の第一祖とされています。

ついでに、第二祖の天親(バスバンドゥー)は唯識教学で高名ですが、唯識の帰結として「浄土論」を著したとされています。それの「論註」を著したのが第三祖の曇鸞で、親鸞の名はそこからきています。特徴として、印度は「論」、中国は「註」、日本は「集」というところがあります。

執着は「なくす」じゃなく「和ぐ」、これは「和の思想」を展開される佐倉さんとしても都合のよい思想ではないでしょうか。「空の思想」だけならナーガルジュナで完結ですが、「願の思想」は印度・中国・日本の三ヶ国(おもに三人づつ)で育まれ、親鸞において完結したものですから、日本人のアイデンティティーの形成にかなうと考えます。日本人の日常生活における「おかげさま」、「いかされている」、「腰の低さ」、「凡夫・ただびと」、「へりくだり」、「譲り合い」などの精神は、「願の思想」の精神でもありますので・・・。

佐倉さんが「ある仏教徒の『死後の世界』観」で語っておられる「わたし自身の『死後の世界』観の形成に大きな影響を与えたもの」は、たぶんに本願的であります。「自分が死んだ後、なおも残る世界を心配する心」は「願う心」であり、親鸞にいわせれば、嫉妬したり憎しみあったりする人間性から自分はもとより仏陀でさえ「わが願い」とはいえないもの、そこに主体のない本願の阿弥陀というもののいわれがあります。「わが願い」とはいえないが、与えられればあるということ、これが教巻の出だしで述べてる「還相廻向」の正体です。まあ、自力他力というも感情のあり方ってことですかね。

「還相廻向」は、嫉妬したり憎しみあったりする人間生活もやがて来る死を迎えることで落ち着く「往生廻向」があってのものです。「往生廻向」と「還相廻向」は相依関係にあります。そして、この二つが自利利他を可能とし、全一なる仏教となるのです。

こうしたことゆえに、佐倉さんが「願の思想」を受け入れられることを信じたいですし、「空の思想」の展開として世に広められることを期待するものです。

現在のわたしは、親鸞の『教行信証』の思想に関して意見を述べる立場にありません。わたしの親鸞の思想に関する知識は『歎異抄』に限られているからです。そのため、誠一さんや渡海さんが、親鸞の思想(教行信証)とナーガールジュナの空の思想(縁起思想)とのあいだに重要な共通性を認めらていることに大変興味を感じています。

わたしの理解するところでは、無我の思想あるいは空の思想とは縁起の思想であり、縁起の思想とは、人間存在についていえば、人間を成立させているものは、人間の内側にある、なにか「永遠の魂(アートマン)」のような実体ではなく、さまざまな他者(自然や他人)との関係である、とする考え方だと思っています。このことは、つきつめれば、誠一さんのいわれるとおり、「おかげさま」の思想となると思います。

それに対して、「永遠の魂(アートマン)」の思想は、結局のところ、自分自身の行く末だけを見つめる思想だと思います。良いことをすれば自分が良いところにゆく。良いところにゆくために良いことをする。他人を愛するのも、そうすることによって、自分が良いところにゆくことができるから。「永遠の魂(アートマン)」の思想は、自我への執着そのものだと思います。

仏教の無我の思想とは、人間の本質は「魂」ではなく「関係」であるという共存の思想のことだと思います。それが縁起の思想だと思います。そして、そこに、仏教のメッター(友情・慈)の実践の根拠もあるのではないかと思います。

生きとし生けるもののうえに
幸いあれ、平和あれ、安楽あれ
弱き者も、強き者も、すべて
長いものでも、短いものでも、中くらいのものも、
小さきものも、大きなものも、
目に見えるものも、みえないものも、
遠くに住むものも、近くに住むものも、
すでに生まれたものも、これから生まれようとするものも、
生きとし生けるもののうえに幸いあれ。
・・・
立ちつつも、歩みつつも、座しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この心づかいをしっかりとたもて。

(スッタニパータ 145〜151)

無我の思想、空の思想、縁起の思想とは、自分自身の行く末ばかりを見つめる思想(我執の結晶、アートマンの思想)が消えて、「生きとし生けるものに幸いあれ」と願うことだといえると思います。そういうところが親鸞の「願の思想」につながるのでしょうか。