hakuaさんが「輪廻と解脱について」および「宗教の否定について」の中で,釈尊はカースト制度を否定したとおっしゃっていたことに関し,興味深く拝読しました.
hakuaさん:
日本で釈迦について語られる時、当時の社会背景が往々にして無視されるのがとても残念です。インドの特殊な状況、つまりカースト制度抜きに釈迦の思想を語ることは出来ないとすら思っています。四苦八苦にしても、低い階層のカーストは高い階層と比べて質的に遥かに悲惨でした。輪廻思想は下層の民衆が革命を起こさない様にする為のマインドコントロールだったのだと思います。「諦め」と「来世への希望」によって爆発を防ごうということです。
佐倉さん:
釈迦が問題としたのは、社会制度そのものではなく、このような、もっと個人的・実存的な危機感であったように思われます。もし、釈迦が社会制度に対して影響を与えたとすれば、それは、目的としてそうなったのではなく、彼の思想の間接的な影響であったと思います。
たしかに佐倉さんがおっしゃるように,釈尊はカースト制度自体を直接に批判する言説を残してはいません.この点に関しては同意見です.ただ,釈尊の出家の動機となった,いわゆる「四門出遊」の故事は,もしそれが歴史的事実ないしそれに近い事実であったとすれば,これは人間の苦悩の源泉としての生老病死一般を指しているのではなく,まさしくカースト制度の下での苦悩=社会的な悲惨,が釈尊の求道に大きな影響を与えたはずだ,と私は推測しています.
なぜそのように推測するのか?当時のインドで「城」といえば,貴族王侯の邸宅ではなく,ヨーロッパや中国にみられるような「城壁で囲まれた都市」のことであり,その内側にはスードラまで含む一般人が住み,その外側にはアウトカーストの人々が住んでいたわけです.そこで「城を出て」釈尊が目の当たりにしたものは,アウトカーストの人々の現実,すなわち,屍体が放置され,懶に冒されても手当てもされず蠢き回り,饐えた臭気を発するような現実であったはずです.そもそも釈尊がいくらお坊っちゃん育ちでも,その歳になるまで死人・病人・老人を見たことがないはずはありません.現に母マーヤの死を経験しているわけです.
したがって,「四門出遊」の故事は一般に受け取られているような,釈尊の感受性の強さのような問題ではなく,社会問題としての生老病死の悲惨さ,それが仏教の原点となったはずである,このように考えています.もちろん仏教はけっきょくのところ階級闘争の理論にはならなかったとしても,心の持ち方ひとつで苦悩は解決できるとするような見方は,仏教の一側面だけしか見ていないのではないか,とも思われます.
ひじょうに象徴的に思われるのは,カースト制度を是とするインド社会に仏教はけっきょく生き残れず,今現在,インドの仏教といえば,それはアウトカーストの人々によってカースト差別拒否の支柱として生きている,ということです.ヒンズー教から仏教へ転向することは,アウトカーストの人々にとってはたいへんな勇気を必要とする(それによってアウトカーストにのみ許された職を失うことになる)にも関わず,少数ながら確実に仏教徒が存在する,そこに仏教がいきてはたらいている姿を感じさせられます.
「四門出遊」の故事は一般に受け取られているような,釈尊の感受性の強さのような問題ではなく,社会問題としての生老病死の悲惨さ,それが仏教の原点となったはずである,このように考えています.もちろん仏教はけっきょくのところ階級闘争の理論にはならなかったとしても,心の持ち方ひとつで苦悩は解決できるとするような見方は,仏教の一側面だけしか見ていないのではないか,とも思われます.繰り返しになりますが、やはり、釈迦が人間の悲苦を「社会問題」として捉えていたと解釈するには無理があると思います。歴史資料の面から見て、根拠が希薄です。とくに、ブッダの言葉として残されている原始仏典には、そのような立場はほとんど皆無です。カースト制度があったことを釈迦が知らなかったわけはない、というようなことから、「社会問題としての生老病死の悲惨さ,それが仏教の原点となったはずである」、という結論を引きだすのは、あまりにも飛躍しすぎているように思います。現代思想を過去に投影されているのではないでしょうか。
煩悩や渇愛や執着、およびそれらに対する無知が人間苦の原因であり、それを克服することが解脱であり涅槃である、というのが、仏典のなかで繰り返し繰り返し語られている釈迦の言葉です。
人々は「わがものである」と執着したもののために悲しむ。〔自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家に留まっていてはならない。(スッタニパータ、、805、中村元訳)カースト制度のような社会システムや病原菌のような物理的要因が釈迦によって人間苦の原因として取り上げられるような事実は仏典にはほとんど見当たりません。マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』ということがわたしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。(同、837)
世界はどこも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。わくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。(生きとし生けるものは)終局においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。またわたくしはその子の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。この(煩悩の)矢に貫かれたものは、あらゆる方角に駆け巡る。この矢を引き抜いたならば、駆け巡ることもなく、沈むこともない。・・・世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。諸々の欲望を極め尽くして、自己の安らぎを学べ。(同、937〜940)
この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。 (同、1086)
いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、これが洲(しま)に他ならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。(同、1094)
仏教の本質を縁起(人に悲苦にはそれを成立させている原因や条件があり、それらを生じさせないことによって人は悲苦から解放される、という教え)と解釈すれば、社会システムや物理的要因がある悲苦の原因となっているとき、その社会システムや物理的要因と直接取り組むのは仏教の精神に則ったものだ、とわたしは思います。しかし、釈迦自身も伝統的仏教も、社会問題や物理的要因を十分に取り上げることがなかったという事実については、仏教の欠点として現代の仏教徒は批判的に取り上げるべきではないでしょうか。かつての仏教徒の様に、釈迦をいたずらに尊大視や神格化せず、また蔑視もせず、尊敬とともに批判の対象とすることによって、始めて、仏教は現代において新生することができるだろう思います。